金海(現・大西)秀允さん元中京大学硬式野球部員(1964年商学部卒)

完全試合のウイニングボールを手にする金海さん

愛知大学野球リーグ戦で史上初の完全試合達成

 「最後(のアウト)は三振で取ろうと思いました」。そしてその通りにストレートで27アウト目を奪った。108球目だった。「今でもこの時の話題になると昨日のことのように思い出しますよ」。そう言って懐かしそうに目を細めた。

 1963年4月13日、名古屋市の瑞穂野球場。愛知大学野球春季リーグが開幕した。中京大は南山大と対戦、4年生の金海投手が先発のマウンドを担った。

 野球を始めたのは小学生の時。捕手としてチームをリードしていたが、投手への返球の威力を見た指導者が投手になることを勧めた。春日井市の中学校ではエースを務め、「高校で野球をやるなら強いところで」と中京商業高校に進学した。すでに全国にその名が轟いていた中京商には各地から選手が集まって来た。

 「素晴らしい選手ばかりでした。大学まで7年間一緒だった平沼(一夫)投手がいつも一番でした」。大学4年時も平沼投手がエースで、「自分は3番手ぐらいだった」と振り返った。しかし、リーグ開幕戦で先発に抜擢された。「平沼投手の調子がもう一つだったんです。それで瀧(正男)部長からお前が行け」と。めったにない先発のマウンドが巡ってきた。

 「ヒットを打たれたら交代という感じでしたので、少しでも長く投げようと、できれば五回まで投げて勝利投手になりたいという気持ちでマウンドに上がりました」。ところがノーヒットが続く。当初の目標の五回が過ぎた。七回に入ると応援団がざわつき始めた。「ベンチに戻ると、他の選手たちが私に対して腫れ物にでも触るように気を使いだしたんです」。相手も必死で打ちに来るが、八回もノーヒット。そして九回も二死になった。単なるノーヒットノーランではない、完全試合が目前となった。完全試合は四死球があっても味方の失策があっても成立しない。守備陣も硬くなっているのがわかった。「ここは三振が一番」。南山大が27人目の打者として送ってきた代打に対して、すべて自信のあるストレートで勝負した。

 そのウイニングボールは56年の歳月を経て、やや茶色に変色している。そこには自らが丁寧にボールペンでしたためた球数108、奪三振14などのデータが今でもはっきりとその成果を物語っている。「4年間の大学野球生活で4勝か5勝しかしてないんです」。だがそのうちのこの1勝はとてつもなくビッグだ。自身はその後、社会人野球生活を少しとモーレツサラリーマン生活を送ってきた。そして今も還暦野球のチームで選手兼監督を務め、全国大会にも出場している。見るからに元気いっぱいの様子だ。最近になって、完全試合を達成した時のボールを中京大学に寄贈した。「何かのお役に立てば幸いです。少しでも多くの人に知ってもらえれば。如何様に処分されても異議はありません」との一筆付きで。

 愛知大学野球リーグの完全試合は、70年の歴史でわずか2度しかない、しかもその第1号が金海さんだ。このあまり知られていない、すごい快挙に日の当たる時がやってきた。