三代真史さん

 新体操部の主将を務めた大学4年の1982年、三代真史さんは入学以来準優勝だった全日本新体操選手権で中京大学チームを率い、自らもノーミスで見事団体の金メダルに。新体操で培った身体能力、精神力、技は、卒業後はジャズダンスの世界で花開く。プロダンスカンパニー「三代真史ジャズ舞踊団」(名古屋市)を結成、世界を舞台に活躍している。和魂洋才のアクロバチックなダンスは、目の肥えた欧米のダンスフリークを魅了、公演は17か国124都市で206を数える。

高校から体操留学

 ――福井県敦賀市の出身ですね。

 はい。父が中学の理科の先生、母も小学校の先生で、母とは6年間学校が一緒でした。中3になった時に父が同じ中学に異動し、父と修学旅行も 一緒でしたがやはり嫌でしたね。福井は中京大の大先輩で日本体操協会の要職を歴任された小竹英雄先生が鯖江の出身。1995年の世界体操競技選 手権は鯖江で開かれるなど、体操が盛んな所です。

 ――中京高校進学はやはり体操の縁ですか。

 器械体操が得意で、中1の時にたまたま器械体操をやっていた先生が赴任され、先生にお願いして体操部をつくっていただいたほど。「高校でも 体操をやりたい」「父からも解放されたい」と関西の清風高校、洛南高校、そして名古屋の中京高校(現中京大学附属中京高校)の3つのうちど こかに行きたいと思いました。中京は高校野球が強く、甲子園でもよく校歌が流れていて、スポーツが強そうだなと校舎を見学に。杁中の体育館 を見た時、「設備が素晴らしい。ここで練習したい」と思いは募り、中京に決めました。

 ――新体操は高校から?

 器械体操で入ったのですが1年生ではレギュラーになれず、新体操団体は6人メンバーが必要ですが2人足りない状態で、「お前、床が強いから 新体操やってみたら」と先生や先輩に言われ、新体操に回りました。

 ――高校は寮生活でしたか。

 三松寮。興正寺のグラウンド近くの体育館の横にありました。木造平屋建てで4人部屋の2段ベッド。朝6時に起床ベルが鳴り、全員グラウンド に整列して寮歌を斉唱してから練習です。掃除も食事も当番制、食事当番になると全員分の食事を作ります。みそ汁のみそが無くて走り回ったり。入 ったばかりの高1にとっては大変でした。陸上、野球、サッカー、体操など体育系の約30人が寝食を共にしていましたね。

新体操の全日本選手権で悲願の団体優勝

 ――大学では4年生で主将、インカレ3連覇の後、全日本では団体優勝されました。

 全日本は1年、2年、3年と予選は1位通過。残念ながら決勝では、いずれもキャプテンのミスで優勝を逃しました。4年生の時キャプテンが僕に回ってきました。中京大は過去3年間のジンクスがあるので、チームのみんなからは「頼むぞ三代、失敗しないでくれよ」。何とかノーミスで優勝出来ました。うれしかったですね。新体操はチーム演技で、アクロバチックな要素もあり、空中でぶつかって落ちるなどのアクシデントも。この時は、チームが身も心も呼吸も1つになり、完璧な演技を展開出来ました。

 ――全日本優勝のほかに思い出は?

 大学1年の6月、ドイツでジムナスト・ラーダという大会があり、中京大の新体操部が日本代表で参加しました。当時、大学の練習がきつく、同じ高校の3年の先輩に「もう、辞めます」って言ったら、「何、言っているんだ」と叱られて。「ドイツの大会に出てから、もう一度考え直せ」と。それでまた練習を再開しました。大会の開会式は日の丸を持ってパレードして、ミニオリンピックのようでした。世界から50~60チーム出て、最優秀賞をいただきました。観客もビールを飲みながら、演技ごとにすごく盛り上げてくれてうれしくなりました。これで思い直し、帰国してからは猛然とやる気になりました。

 ――授業では思い出は?

 前学長で運動生理学の北川薫先生。先生には敏捷性・柔軟性を認められ、「エイトマンだ」とあだ名を付けられました。「エイトマン、前に来い」とよく呼ばれ、みんなの前で柔軟のストレッチのお手本となったり、「筋肉をぐっと。はい、これが上腕三頭筋だ」とボディのモデルをよく務めました。

 ――大学時代、先生や先輩からの教えや言葉で、記憶に残っているものは?

 先輩からはよく、「努力はうそをつかない」「挑戦しなければ夢はつかめない」などと言われました。今も心の拠り所にしています。体操競技部と新体操部の部長などを長く務められ、1936年ベルリンオリンピックに出場された三宅芳夫先生も記憶に残る先生です。本当に穏やかな先生で、いつも優しく接してくださって、「辛いことがあっても絶対、諦めちゃいけないよ」と何度も励まされました。卒業式では、梅村清明理事長から理事長賞を頂きやはり感激しましたね。

ジャズダンスに転身

 ――卒業後はジャズダンスの世界へ。何がきっかけだったのですか。

 それは、同じ体育学部OBの坂本久美子先生との出会いがあります。坂本先生は名古屋のYMCAでフィットネスやダンスを教えておられ、僕は大学4年で、卒業後はふるさと福井で高校の教員に決まって間もなくの頃でした。当時はダンスブーム、先生はインストラクター助手を探しておられた。大学のご縁もあって卒業までならと助手を引き受けたのですが、先生から「あなたは教員は向いていない。この道に進みなさいよ」と説得されました。「えっ」とびっくりしましたが、YMCAの正式採用試験は終わっていたのに正職員で迎え入れるとも言われ、ダンスの世界に入りました。先生とはその後、ジャズ舞踊団を一緒に立ち上げ、先生は芸術監督として、二人三脚でやってきました。

 ――全米ナンバーワンのダンス専門誌「DANCE MAGAZINE」の表紙も飾られるなど大活躍ですが、ダンスへの転身には両親もびっくりされたでしょう。

 「ダンスで」と言ったら、驚愕していました。坂本先生も説得の手紙を出してくれましたが、当初は取り合ってくれなかったようです。高校時代も親元を離れて体操留学でしたから、両親には心配ばかりかけました。坂本先生は、ぱっとひらめいたら粘り強くやられる。先生は「私が教えるとコピーのコピーになるので、それだと本物になれない、本場で本物から学びなさい」「やるのならニューヨーク・ブロードウェイに行って勉強しなさい」と話され、YMCAから毎年夏休みに1か月ほどニューヨークで勉強、研修に送っていただきました。しっかり本場で勉強が出来たのはYMCAのお陰です。

 ――ダンスで生きていけると思ったのはどのくらいたってからですか。

 それは早く半年ぐらいたった頃、水が合いましたね。ニューヨークのフランク・ハチェットという先生にずっと付いてもらい教わりました。体操をやっていたので、柔軟性は他の選手よりあり、アクロバットもできたし、ジャンプ力もあった。ある日、その先生から「アメリカ人のコピーをするな」って言われた。「コピーだとアメリカ人には勝てない、評価もされない。もっと日本の文化を取り入れたダンスを創作してはどうか」と。それで忍者とか、武士道をテーマとした作品をつくるようになったのです。

全米ダンス専門誌の表紙を飾る

 ――8年たって、坂本さんと独立されたのは32歳の時ですか。

 そうです。三代真史ジャズ舞踊団を結成しました。しかし、当時ジャズダンス界での日本の地位は低かったですね。ジャズダンス世界大会に「プロのカンパニーとして出演したい」という願望が中々受理されず、粘り強い申請が実って1990年にシカゴで開かれた世界大会に5分だけいただき出演できました。この時の演技に観客は総立ちになり、新聞社やテレビ局が楽屋を訪れ、インタビューが報道されました。大会の創立者からも高い評価を受け、「最高の団体の一つ」と絶賛されました。オーバーナイト・サクセス、突然の予期せぬ成功でした。アメリカは実力主義、実力が評価されれば認めてくれる国と思いました。

 ――DANCE MAGAZINEの表紙を飾るのは、それから11年後の2001年8月号ですね。

 この時、偶然にもアメリカの「ベースボール・マガジン」の表紙はイチロー選手。愛知県ゆかりの2人が表紙の雑誌がニューヨークの路上で売られていて、めちゃくちゃうれしかったですね。1995年には名古屋市でジャズダンスの第4回世界大会が開かれ、出演した僕と、誘致・プロデュースした坂本先生は母校の中京大学から特別表彰されました。表彰式は鶴舞の市公会堂。壇上で梅村清弘理事長から表彰状を受け取り、高校、大学での7年間があったからこそと感激しました。

 ――今の夢は何ですか?

 全国オーディションも行い、最高のワールドツアーをやりたいですね。イギリスはまだでして、ぜひロンドンからスタートして、そしてパリ、ニューヨークと。坂本先生からは僕の踊りは日本刀の真空斬りだと。日本刀で斬った残像を見せるっていうのかな、そういう踊りはやはり体操から来ている。自分の持ち味を生かしていきたいですね。

三代真史(みしろ・まさし)さん

1960年、福井県敦賀市生まれ。
中京高校から中京大学体育学部に進学。大学時代は新体操部に所属、4年生の時には全日本で団体初優勝。卒業後はジャズダンスに転身、新体操で鍛えた高い身体能力を基軸に独創的な三代スタイルを構築、1990年よりジャズダンス世界大会の招待を受け米国をはじめドイツ、メキシコ、中南米などで日本代表として出演。2000~2007年ヨーロッパツアー。2012年、「名古屋市民芸術奨励賞」受賞。