森敏さん

 ノルディックスキー複合種目の選手として2度の冬季五輪に出場した中京大学オリンピアンの一人、森敏さんは現在、東海大学国際文化学部(札幌キャンパス)准教授として学生の教育にあたっている。同時に、同大学スキー部のノルディック担当監督を務め、競技者の指導にも精を出している。自らの競技生活を終えた後、中京大学体育学部に進学し、同大学院を経て教育者の道に進んだ森さんを、札幌市にある東海大学の研究室に訪ねた。

生まれながらのスキーヤー

 ――出身は長野県ですよね、野沢温泉村。地域的にしっかり雪も降る場所ですからスキーに触れるのも早かったのでしょうね。

 そうですね。スキー自体はそれこそ物心つく前にやり始めていました。スキー場の麓に住んでいましたから。

 ――競技者を目指そうとしたきっかけは何だったのですか。

 スキーにかかわりながら育っている中で、自然と競技者の方に向かっていったって感じです。家が旅館をやっていたこともあって、スキー場で大会があると、ジャンプの選手が宿泊したりしていましたので、私も大きくなるにつれて大会などに興味を持つようになってきました。それと祖父もジャンプの選手だったものですから。

 ――野沢温泉には普通のスキー場とジャンプ台もあったのですか。おじいさんはどのくらいのクラスの選手でしたか。

 昔から野沢温泉にはジャンプ台もありました。祖父は日本選手権も勝ったのかな。国体は優勝経験があります。名前は、私のモリサトシに「雄」、森敏雄です。

 ――ジャンプをやられたのはおじいさんの影響ですか。

 私は3人兄弟で両親はアルペンスキーをやっていました。それで1人くらいはジャンプをやらせようと思ったのか、私はよくジャンプ台に連れていかれましたね。

人生決めたオーストリア留学

 ――飯山北で高校時代に、インターハイのノルディック複合で優勝もしていますね。

 1990年に高校を卒業した後に3年間ほどヨーロッパに留学しました。オーストリアです。インスブルックから30㌔ばかり離れた所に競技のコーチが住んでいて、そのコーチの家にホームステイをさせてもらいながら語学学校に通ったり、時にはドイツのナショナルチームと一緒に練習させてもらったりとか、素晴らしい時間を過ごしました。
 スキー人生だけじゃなくて、今こうして学生たちを教えている中にもそこで学んだことが大いに役立っています。

 ――指導法も教わったのですか。

 そうですね。オーストリアのコーチの国家資格を取るコースに通って。そして実際にその資格を取りました。ただ当時、そういう資格自体が日本にはありませんでした。今ではだいぶ整備されてきておりますが、二十何年前はそうではなかったですね。

 ――初めてワールドカップに出られたのはいつですか。

 93年に日本に戻ってきて野沢温泉スキークラブに所属し、その翌年の94年3月にW杯初出場しました。リレハンメル冬季五輪が終わった後でした。もちろんリレハンメルも狙っていたのですが、五輪出場には及びませんでした。

 ――1994年リレハンメル五輪といえば、ちょうど開催年を2年ほど早め、アルベールビル五輪の2年後でした。

 そうですね。2年後でなくて4年後の96年なら出られたかもしれない。でもリレハンメル五輪直後の初めてのW杯は10位だったんですよ。日本人では3番目でした。

2度の五輪で入賞果たす

 ――98年の長野五輪でオリンピック初出場されますね。その年は競技の調子もかなり上々だったですね。

 長野五輪では複合団体で5位に入賞しました。同じチームに荻原兄弟がいました。翌99年はさらに良かったですね。ポーランドで行われたW杯で自身最高の個人2位に入り、98-99年シーズンの個人総合は12位でした。

 ――2002年のソルトレークシティー五輪にも出場し、複合団体で8位に入賞。翌03年に大きな大会からの競技生活を引退し、4月に中京大学体育学部に入学されますね。

 体力の衰えとかを感じたということは全くないのですが、まず、単純に勉強をしてみたいと思ったんです。留学していた時、言葉をしゃべるという勉強を通じて勉強ってすごく楽しいと感じた。それとヨーロッパの選手の中に競技を終えた後に大学に行って勉強をしている人がかなりいたので、同じことをやってみたいという気持ちもありました。将来どうこうということより、とにかく勉強したいという気持ちでした。

中京大で学び、東海大へ

 ――中京大学を選んだきっかけは何だったのですか。

 もともと海外で勉強が面白くなったのだから海外で勉強を続けようとも思ったのですが、いろいろと考えてみてちょっと日本の大学を探してみようとなった時、北川(薫)先生がスキーの研究にかかわっておられることを知って北川先生のところに行ってみようと。そしてそこで最初から研究にもかかわらせていただいて、良かったなと思っています。

 ――中京大学では学生、院生として学ばれましたが、体育会スキー部のコーチ、監督もやっておられますね

 中京大には7年ほどお世話になりましたが、その間、スキー部のコーチは最初からやっていました。監督就任は4年目だったでしょうか。今の船渡(裕太)監督が学生の時でしたね。

 ――大学院への進学は研究者を目指してということだったのですか。

 そうですね。ここ(東海大)に来て10年になります。今、例えば本職は何だって言われると少し困ったりもする場面もありますね(笑い)。スキーのコーチ、ナショナルチームのコーチなどもしていますからね。だけどお金をもらっているのは大学の仕事だけです。スキーの仕事はすべてボランティアなので。でもどっちに力が入っているかというと、研究よりも指導の方に力が入ってしまいます。東海大学もスポーツというものをすごく大事にしています。

 ――スキー部はどんな状況ですか。インカレなどの成績は。

 インカレは私が来て2年目から、男子総合5連覇ですよ。今はちょっと2番手とか3番手って感じですけど。早稲田大、日本大、東海大の3校で争っているといったところです。ただ、ウインタースポーツはインカレが大学生の一番上の大会というわけではありませんので。

 ――少し話が戻りますが、中京大学在籍時の印象的なこととか、思い出として残っているようなことを教えてください。

 一番は研究をいろいろとさせてもらったことです。設備も素晴らしくて。いろんなものがどんどん新しくなっていった。スケートリンクはもちろんですが、大学に入ったころはほぼ土のグラウンドだったのが、人工芝になっていった。いろんな先生方の授業もたくさん受け、勉強させてもらいました。学部でも教職を入れると、180単位以上取っているはずです。
 いろんな授業一つひとつがとても面白かった。体育、スポーツ関連じゃないものも含めて。一般教養もけっこう取りました。生物学や環境関連の科目、統計学だとか、万遍なくとりました。

 ――母校中京大にひと言お願いします。

 ウインタースポーツにさらに力を尽くしてください。モーグル、ショートトラック、フィギュアの活躍は知っていますよ。

 ――最後に、趣味と言いますか、なにか楽しんでいることはありますか。

 昔から好きだったのですが、走ることに凝っています。今年、初めてフルマラソンを北海道で走りました。3時間26分でした。愛知にいる時も名古屋シティーなどでハーフは走りましたが、フルマラソンはいいですね。来年は4月の長野マラソンに出るつもりです。

森敏(もり・さとし)さん

1971年生まれ。
長野県立飯山北高校卒。3年間のオーストリア留学から帰国後の93年6月から野沢温泉スキークラブに所属。94年3月、ワールドカップ初参戦でトップ10入り。98年長野五輪ノルディック複合団体5位、個人38位、2002年ソルトレークシティー五輪ノルディック団体8位、個人30位。03年4月、中京大学体育学部入学。06年7月にスキー競技部監督に就任。2009年3月中京大学大学院体育学研究科修士課程修了、同博士課程を11年3月に満期退学。東海大学国際文化学部専任講師を経て、現在は准教授。スキー部ノルディック担当監督。