松村信美さん、長谷川端さん、佐藤隆さん 文学部座談会

 文学部は、商学部(現総合政策学部)、体育学部(現スポーツ科学部)に続き1966(昭和41)年に法学部と同時に設置された。開設当初は、国文学科、英文学科、心理学科の3学科体制だった。今回、文学部の開設から、国文学科の教員として発展に尽力した松村信美さん、長谷川端さん、文学部の卒業生でもある佐藤隆さんに学部草創期から現在まで半世紀余りにわたる文学部の歴史について話を聞いた。

学部認可の一報に沸き立つ

 ――文学部開設にあたって思い出に残っていることは。

松村 1965(昭和40)年12月、理事長室で梅村清明理事長をはじめ、他の関係教員と共に、文部省(当時)から、文学部と法学部開設の認否連絡を待っていました。電話が鳴り理事長が受話器を手に取るとすぐに笑みがこぼれました。2学部同時の開設は難しいといわれている時代の朗報だったため、居合わせたメンバー全員が一斉に立ち上がっての大拍手となりました。私は当時中京商業高校(現中京大学附属中京高等学校)で国語教諭をしていましたが、文学部開設のタイミングで中京大学「国語学」担当の教員になりました。

 ――文学部国文学科の先生方はどのようにして集めたのですか。

佐藤 もともと中京商業高校には國學院大學出身の教員が多くいらっしゃいまして、私の祖父の代から國學院の出身者による院友会というものがありました。その人脈を基礎に教員集めを始めたと聞いています。また、当時の教養部には土橋文夫先生という方がいらっしゃって、そのつながりで広島高師の方も何人か集まられたようです。

松村さん

松村 当時、私を含めて國學院の出身者が7、8人いたので、清明先生から「中京の国語は國學院でもっております」と、言われたこともありました。

 ――草創期の文学部の様子を教えてください。

佐藤 草創期の文学部は、国文学科、英文学科、心理学科の3学科体制だったので、学科間の調整はいろいろと大変だったのではないでしょうか。

松村 文学部の教授会がある前日に、学科の教授会を開いていました。そこで学科の意見をまとめて、翌日の文学部の教授会に提出していました。すると、しばしば学科間で意見がぶつかることがありました。

佐藤 やはり学科間で考え方の違いがあったんですね。国文学科と英文学科は心を大切にする、一方の心理学科は理論を大切にするというような。もちろんそれが全てというわけではないですが。意見が一致しないところもありましたが、まあそれぞれの学科で、互いに切磋琢磨していたということでもあります。

松村 国文学科だけを取り上げると、一致団結して順調にきているなと感じていました。

佐藤 私は、文学部国文学科の1回生ですから講義を受ける方でした。先生方からは熱心に教えていただいているように感じていました。

長谷川 学生のことでいうと、私は毎週学生に作文を書かせていました。3、4カ月で上手になった学生もいましたね。下手な子には毎週真っ赤に添削して返していました。下手な子でもやり続けると段々上手くなっていったので、やりがいがあって面白かったですよ。

学科改組で東海地区を代表する存在に

長谷川さん

 ――大学院設置の経緯はどのようなものだったんでしょうか。

長谷川 1971(昭和46)年に文学研究科心理学専攻修士課程が設置され、その2年後に文学研究科国文学専攻修士課程が設置されました。私は国文学科の教員だったので、国文学専攻の設置に携りました。大学院の設置は、大学院をつくらないと大学として生き残ることができないという梅村清弘理事長の方針でした。

 大学院をつくるにあたって、東京の有力な学者たちのところを回りました。大学はともかく大学院をつくるとなると、教員はそれなりの業績をもっていて、できれば大家がいい。学会にきちんとしたポジションがあって研究ができる方がいないと院生の指導はできませんので。そういう人を探すのはとても大変でした。

 余談ですが、教員集めのために東京に行くと清明先生に相談したら、「名古屋から行くんだから漬物を持っていきなさい」と言われ、重たい漬物を持って東京を歩き回ることになりました。いま考えると笑い話ですけどね。

 ――学部・学科の改組や新設について、当時の動きを教えてください。

佐藤 学園の方針で、2000(平成12)年に心理学科が心理学部に、翌々年に英文学科が国際英語学部に改組しました。その結果、文学部は国文学科だけになったので、2学科にしようという話になりました。このときに国文学科という名称と国文学科の教育をどのように考えるかということも議論され、国文学科から日本文学科に学科名称が変更になりました。

 名称については、世界の文学の中において、日本国の文学を究明することを考えると、「日本文学科」といった方がいいだろうということでした。他国の文学と日本の文学を比較するようなことも含めてやっていこうという考えがありました。また、当時は学部・学科の名称を時代趨勢に即して変えるのが流行ったということも、学科名称を変更した背景にあったと思います。

長谷川 国文学科から日本文学科という名称に変更して、学部の教員から、「なぜ国文学科という名称を残してくれなかったのか」と言われたこともありましたが、やはり時代の流れだと思います。

佐藤 あとは新設された言語表現学科についてです。時代の流れの中で実学的分野が注目され、何か新しい学科をつくろうということになりました。それこそコピーライターや新聞記者のような文章を書ける人間を育てようということがありました。実際に社会に出てすぐ使えるように技術を磨いておく。専門を研究することは当たり前で、実学に通じることが必要だという時代の流れがありました。

 さらに、優秀な学生が集まるようになった要因の一つに2014(平成26)年に歴史文化学科をつくったことが挙げられます。日本文学科と言語表現学科に対して、やはり歴史系の学科が必要だろうと。しかし、純粋に歴史だけで一つの学科をつくるのは大変だということで、少し複合的にして歴史文化学科になりました。3学科がそろった結果、先生方のご尽力もあり、いまでは、中京大学の文学部は東海地区を代表するレベルの存在となっています。

卒業生とのつながりは大切

 ――卒業生について、思い出に残っていることはありますか。

松村 当時は教員になった学生が非常に多くいました。私は教育実習の関係で全国の中学・高校を500校ぐらい巡ったんですが、当時教育実習を受けていた学生がいまでは教育実習の指導教官になっているという学校もいくつかあります。それらの学校の校長先生は、「中京大学の卒業生は皆とても頑張っている」とおっしゃいますね。

 また、大学と卒業生のつながりという点で話をすると、いま同窓会が全国各地で行われています。中京大学は、卒業したら終わりではなく、卒業してからも学生とのつながりを大切にしている。他の同僚にも聞きましたが、そんなところが好きで自分の子どもを中京大学へ入学させたという話も聞きます。私は、中京大学のそういうところがとてもいいなと常々感じています。

 ――今後の文学部に、期待することはありますか。

佐藤 いまの学生は良くも悪くも真面目でおとなしい印象を受けます。講義を一生懸命聞くのももちろん大切ですが、もう少し自主性を持ってさまざまな分野の勉強をするようにならないといけないなと感じます。

佐藤さん

長谷川 本当に真面目で授業を休まないですね。勉強ももちろん大切ですが、それ以外のことにもいろいろ興味を持って学生生活を過ごしてほしいなと思います。

松村 国文学科が日本文学科・言語表現学科に改組し、さらに歴史文化学科を増設したことで、3本の大黒柱が備わった学部になったなと感じます。教職員が一致団結して、学問の上でも運営の上でも、文学部の発展のため、努力をしていただきたいと思います。

松村信美(まつむら・しんみ)さん

中京大学名誉教授。1931年生まれ。長野県出身。
國學院大學卒。中京大学文学部教授、教務部長、弓道部長・監督と洋弓部長・監督を歴任。専門は国語学。

長谷川端(はせがわ・ただし)さん

中京大学名誉教授。1934年生まれ。群馬県出身。
慶應義塾大学卒。慶應義塾大学大学院博士課程満期退学。文学博士。中京大学文学部教授、文学部長、文学研究科長、図書館長を歴任。専門は日本文学(中世)。

佐藤隆(さとう・たかし)さん

中京大学名誉教授。1947年生まれ。愛知県出身。
中京大学卒。皇學館大学大学院博士課程修了。文学博士。中京大学文学部教授、文学部長、文学研究科長、図書館長を歴任。専門は日本文学(上代)。