陳全寿さん

 中京大学体育学部教授としてバイオメカニクスなどを教えた陳全寿さんは、その後、台湾行政院体育委員会主任委員として台湾のスポーツ行政を牽引した。行政院体育委員会主任委員は日本風に言うと、スポーツ大臣にあたる。2004年から07年初めまで務めた。学長や教授を歴任した国立台湾体育運動大学を退職した今も、2020年東京五輪に向けた強化委員会委員長として忙しい日々を送っている。現在の住まいは故郷の台湾・彰化県に近い台中市。陳さんが2月中旬、台北市に出張した折に話を聞くことができた。

幼少期からスポーツが得意

 ――体育、スポーツとともに人生を送って来られました。そもそも体育との関わりはいつからですか。

 台中近くの彰化県で1941年に生まれました。4、5歳だった終戦のころ、うちの父が村の何十人かに拳法を教えたんですよ。夏はみんな上半身裸で一生懸命やっていました。で、終わったらうちの母が、お粥のようなものをバケツにいっぱい持ってきて、みんなすごくおいしそうに食べとったんですよ。その光景がすごく印象に残っています。父親にたまに「おい、お前、デモンストレーションやってみろ」と言われた。それがひょっとすれば(体育への)動機付けになっているかもわかんないですよね。あの光景は何ともいえない。それが一番はっきりとした記憶かも知れません。特に食べ物のない時だったから、食べ物とのつながりで印象に強く残っているのでしょう。

 ――その当時、台湾は焦土と化して作物を育てるような状況になかったということでしょうか。

 うちの村の近くに精糖会社があったのですが、戦争中はサトウキビを砂糖じゃなくて、アルコールに精錬していたんです。精糖会社が結局、飛行機の燃料かなんかを作らされていたのでしょうね。それで米軍のすごい爆撃を受けました。

 ――お父さんは先生だったのですか。

 いいえ、農夫です。結構、広大な土地を持っていました。米とかいろいろ作物を作っていました。それでも食料難で大変だったんです、その時代は。でも土地があったということで体を動かしていたんですね。で、本当に陸上競技を始めたのは小学校4年生の時、担任の先生に勧められました。たまたま「お前足が速いね、放課後、一緒に練習しないか」って誘われて。それで先生と走ったり跳んだりしてね。その時、年に一度の町のスポーツ大会で、優勝したんですよ、100メートルで。それがいちばん最初の競技でした。

 ――それは競技に打ち込むきっかけになりましたね。

 そうなんです。うちは男の兄弟が5人、女子が2人の7人きょうだいで私は三男です。村を1周、2~3キロでしょうか。田んぼの細い道を週に2、3回走るんです。長男が先頭で4人が後ろに付いて、裸足で。拳法で小さいころから足腰を鍛えていたんですよね。だから上の兄も短距離の選手でした。僕ほど速くなかったんですが。その兄は今92歳、未だ元気ですよ。盆栽なんか自分で毎日やってますよ。

十種競技でメキシコ五輪出場

 ――短距離だけでなく十種競技をやられるようになった。

 小学校では短距離。県大会でも優勝しました。高校の時は全国大会の走り幅跳びで優勝したんです。その前の中学校では何と砲丸投げ。砲丸投げで中学校の全国記録を作ったんですよ。体はあまり大きくないんですが、おそらく脚筋力とパワーがあったんです。
 ちょうどその時代に楊伝広という(十種競技で)世界記録を作った国民の英雄がいました。私も走れるし、跳べるし、投げるということで、周りからお前もやれば第二の楊伝広になれるんじゃないかと。楊さんは(身長が)1メートル86もあるんです。私は1メートル70しかない。もともと無理だけど、そういう風に言われてね。高校2年だったかな、全国大会の混成競技で4番に入ったんですよ。台湾の混成競技の歴史の中で高校生が社会人も出る全国大会で上位に入ったのは初めてだったらしいです。

 ――1968年のメキシコシティー五輪に出場されましたね。

 100メートル走と十種競技に出場しました。メキシコでは初めてタータン走路が採用されたんです。タータントラック(の競技場)は日本にも台湾にもなくて、日本陸連が国立競技場の近くだったと思うんですが、練習用の走路を造ったんです。あの時私も日本代表の飯島(秀雄)さんらと一緒に練習したんです。本番では100メートルは予選落ちでした。この大会から電気計時が採用されて私は確か10秒7でした。

 ――十種競技はどうでしたか。

 十種は前半の5種目で終わりました。四つ目の種目の走り高跳びで踏み切り足を怪我したんです。高地のメキシコシティーは空気が平地より30パーセントぐらい少なくて空気の圧が低い。だからちょっと踏み切りがおかしくなったんですね。次の400メートルはうまく走れたんですが、その夜、膝が腫れてきて翌日の後半を棄権したんです。

理論と実践の必要性学ぶ

 ――その時はどこの所属だったのですか。

 東京教育大学の陸上競技部員でした。卒業後は、杏林大学の医学部に入って基礎医学を6年間やりました。そのころ、中京大学教員だった安田矩明先生(1960年ローマ五輪の棒高跳び日本代表)にお会いしました。安田先生は台湾のお生まれです。だから台湾の、特に陸上競技選手をかわいがってくださって。私が医科大学で研究しているのを知って、ぜひ中京に来いと。安田先生に引っ張られて中京大学に行ったんです。

 ――陳先生が中京大学で教員になられたことで台湾から結構たくさん学生が入ってきました。

 そう、もうあの時は大勢ね。陸上の選手たちが。蘇文和、陳進龍、戴世然(いずれもオリンピック代表選手)とかね。全部、日本インカレで優勝したんですよ。私がいるから中京大にたくさん来ましたけど、私がいるからだけじゃなくて、梅村清明先生が台湾からの留学生をすごくかわいがったんですよ。それはもう、言葉に言い表せないぐらいでしたね。

 ――中京大学では20年余りすごされました。

 私はスポーツサイエンス、運動生理を学んできました。だからいろんな科学実験や科学的なトレーニングをやっていました。だけど実際中京大へ行って、現場の、例えば清明先生の奥さん、梅村すみ子先生。あの先生が早く走るためにはどうすればいいということを、理論じゃなくて実際に走って、足の振り方、重心をどうやって移動するか、蹴り方のタイミングとか、選手たちに示しておられたのです。それを見て僕は実験で覚えたことよりも、これだっていうのが分ったんですよ。当然のことですが、理論と実践の両方が必要なんだと。すごくはっきりと。すみ子先生は結構なお年を召しておられたが、しょっちゅう、陸上競技場でみんなに教えておられましたね。

 ――すみ子先生は陸上競技部の女子の部長をしておられましたね。斎辰雄先生も陸上を指導していた時分。

 はい。斎先生。その時代だったと思います。研究するテーマもどんどんと増えていって、中京大時代に私はいろんな発想が身につきました。

今も代表選手を指導

 ――台湾に帰られて国立体育運動大学ですね。

 大学のコーチング科学研究所の所長を6年、それから学長を4年務めました。

 ――スポーツ大臣にも就任されましたが、大臣のいちばんの仕事はどんなことですか。

 競技場とか体育館とかそういうインフラを計画的に整備すること、スポーツ・フォー・オール、つまり国民体育、健康づくり。チャンピオンスポーツ、競技スポーツの向上でしょう。学校の体育も含めてね。私はとにかく現場に足を運ぶことを大事にしました。競技場や選手たちの練習場にも。私の在任中、台湾が初めてオリンピックで2個の金メダルを取ったんですよ。アテネ大会でしたが、テコンドーで。陸上とか水泳ではないのですが、やっぱり金メダル獲得は難しいことでした。あとアーチェリーで銀2個、テコンドーでは銅も。

 ――現在も選手たちを指導していますね。

 今、台湾の2020年東京オリンピックに向けた強化委員会の委員長を務めています。陸上競技だけでなく、10のスポーツ競技で30人ぐらい、メダル候補がいるんです。その選手たちの面倒を見ています。本当は定年してもいいんだけど、自分がスポーツ、学問をやってきて、まだ何か伝えるものがあるから。今、台湾、短距離も強くなってきたんですよ。去年のアジア大会で200メートルと110ハードルで銀メダル取ったんですよ。200は日本選手とすごく競り合った。優勝はできなかったけど。

 ――これからもぜひご活躍ください。

 中京大学ではすみ子先生、斎先生だけでなく、田島先生や朝比奈先生、そのほか多くの先生たちとご一緒でき、中京大学では充実の教員生活を送ることができました。まだまだ頑張りますよ。

陳全寿さん

1941年生まれ。台湾・彰化県出身。
68年、東京教育大学生時代に陸上競技100メートルと十種競技選手としてメキシコシティー五輪へ出場。73年東京教育大大学院修士課程(運動生理学)修了。76年、中京大学体育学部講師。79年助教授、83年教授。88年杏林大学医学博士。94年国立台湾体育運動大学教授。2004年から07年まで台湾・スポーツ大臣を務める。