南勝久さん

 韓国のスポーツエリートを育成する国立韓国体育大学校(KNSU)教授の南勝久(ナム・スング)さんは、1992(平成4)年4月から3年間、中京大学大学院体育学研究科で学んだ。84年のロサンゼルス・オリンピックに体操競技の韓国代表として出場した南さんは「中京大学オリンピアン」の一人でもある。2018年夏、南さんが中京大を訪問したのを機にインタビューをした。

大学院で「体操クラブ」の制度を学ぶ

 ――体操選手としてオリンピックに出場されたのは1984(昭和59)年のロサンゼルス大会ですね。当時は学生だったのですか。

 はい、韓国体育大体育学部の学生でした。82年に入学し、86年春に卒業しました。今は、その母校で教員をしています。

 ――中京大大学院に入学されたのが92年ですから、その間、6年ありますね。

 韓国体育大を卒業して大学院に進学しました。2年間、修士課程で学んでその後、母校で助手をしました。体操部を教えていました。3年間ほどです。

 ――中京大で勉強しようと思われたきっかけは。

 体操の指導をしていると、海外にも試合でよく行きます。福岡をはじめ日本にも何度も来ました。だけど日本語もしゃべれないし、日本語でも英語でも外国に行ってちょっと勉強しようかなと。未来のためというか、選手たちのためにも何か役に立つことがあるのじゃないかなと、そんな考えもあってです。

 ――せっかく日本語を習得するのであれば、得意分野の体育学を勉強しようと思われたのですか。

 そうですね。体操については日本が強かったので。日本の体操の歴史では中京大がとても強いと書いてあったのを読んで、じゃあ行ってみようと思いました。有名な先生方もいらっしゃるし。

 ――専攻というか、研究テーマは。

 それは「体操クラブ」についてです。韓国には体操クラブの制度がないんですよ。だから日本のクラブ制度はどのようになっているのかを勉強して、韓国でやってみようと思ったんです。しかし、韓国にはいまだにその制度ができていない。それがあればもっと体操の実力が上がると思うのですが。

 ――体操クラブの制度というのは、学校のクラブのことではなくて。

 学校内のクラブではなくて、外のです。韓国でも体操以外のテコンドーや水泳などは街にスポーツクラブがあります。それなのに体操は、危ないっていう判断なのか、国の基本政策で学内の体育という形でやっています。体操は幼児期からやらないとなかなか上達しないのですが、韓国では早くても小学校からになります。

 ――ところで南先生はいつごろ体操を始められたのですか。

 小学校2年生からです。兄が体操をやっていて、私はただ兄と一緒に帰ろうと体育館に遊びに行っているうちに興味を持ちました。もちろん、学校体育の体操クラブです。

オリンピックで選手、監督、審判を経験

 ――ご出身はソウルですか。

 いや、地元は光州です。光の州と書きます。南の方です。

 ――クアンジュですね。1980(昭和55)年に民主化を求めて大きな学生運動がありましたね。

 当時、私は高校2年生。多くの仲間と民主化運動に参加しました。その光州で高校まで過ごし、大学入学でソウルに行きました。選ばれたというか、スカウトされてです。

 ――それは体操競技の成績が優秀だったということですね。

 高校の時にいい指導者に出会いまして。運も良かったです。うちの大学はもう全部無料なんですよ。国からのお金というか。寄宿舎も着る物、食べ物とかも全部ただです。

 ――エリートを育成する学校ですね。

 今は体育以外に舞踊や社会体育学科もあります。一般学生は学費を払っています。

 ――ロサンゼルス五輪は84年だから、3年生の時ですね。

 韓国ナショナルチームに入るために何度も選考会があって、代表チームの一員になりました。韓国の体操はロス大会で初めて団体総合に出場しました。

 ――結果はどうでしたか。

 いやいや成績は悪かったです。日本とは比べものにならなかったです。私は鉄棒が好きだったのですが、金メダルの森末慎二さんがめちゃくちゃ強かった。あとは日体大の具志堅幸司さん、個人総合優勝でした。

 韓国の体操は今は強くなりました。日本、中国に次いで3番目ですね。アジアで。

 ――中京大の指導教員はどなたでしたか。

 守能信次先生です。守能先生はフランスでスポーツ経営学の博士号を取られたらしいんですよね。経営学とスポーツ社会学を勉強されて。私もクラブ経営とかクラブ運営とか、そういう面の勉強をしたくなって。

 ――論文もそういう内容のことを。

 そうです、はい。日本の体操クラブに通っている子供の親たちの考え方、どういうふうにクラブを選んだか。クラブ会員のアンケート統計なども交えて。

 ――韓国の競技団体には関わっておられるのですか。

 今は韓国体操協会の企画研究委員長という役職を務めています。以前は審判長をやっていて、オリンピックや世界選手権大会で審判をしました。

 ――オリンピックの審判はどの大会でやられましたか。

 2008年の北京大会です。現在は引退しました。後輩もたくさんいますから。日本の審判の人たちとも親しいですよ。笠松茂先生(笠松体操クラブ代表)の息子さんとか。

 ――笠松さんの息子さん、シドニー五輪に日本代表で出られた笠松昭宏選手ですね。

 今、審判をやってますよ。私が日本にいるとき、昭宏君、幼稚園児だったんですよ。私は(笠松先生の)クラブにしょっちゅう遊びに行って教えていました。確か娘さんも一緒でした。

 ――中京大学から韓国に戻られて(体操)協会のことをやってほしいということだったのですか。

 そうです。修士課程を修了してから帰って、韓国ナショナルチームの監督をやりまして、アトランタ・オリンピックに選手を連れて行きました。

 ――監督として、ですか。

 そうです。ヨン・チョルという跳馬に強い選手がおりまして銀メダルを獲得しました。

 ――選手たちは全国から集まってくるわけですね。合宿や練習はどんな所でやるのですか。

 選手は全国から優秀な人たちが集まって、日本のNTCのようなトレーニングセンターでやります。全部無料というか、もう給料ももらえます。選手たちも。

 ――街のクラブチームもできるといいですね。素質のある子が沢山いるでしょう。

 本当にそうです。もったいないです。そうすればもっと底辺を広げることができると考えています。

 ――アトランタの後はどうされたのですか。

 3年間、毎日、練習ばかりでしたから、全然勉強できなくて。それじゃあもったいないので、せっかく日本で勉強したことを生かしてみようと、98年からあちこちの大学で非常勤ばっかりしていました。そのうち、今の大学から専任でやってほしいと。

 ――韓国スポーツの中心となる学校ですよね。エリートを集めて鍛えていくという。

 そうですね。五輪メダルの半分以上はうちの大学関係で取っているんじゃないでしょうか。

ゼミの活性化、在学時の経験を教え子に

 ――専任になられたのはいつですか。

 2005年からです。専任講師から始まりまして、3年ぐらいで助教授。また、5年過ぎたら副教授、それが終わったら教授です。今は教授です、16年から。

 ――南先生は、博士号は韓国で取得されたんですね。

 アトランタ五輪を終えて、5年がかりで。理学博士です。韓国では体育系列は理学なんです。

 ――じゃあ、2000年のシドニー五輪の時は勉強中だったのですね。

 ええ、でも審判としてちょっと関わりました。

 ――2年後は東京大会ですが、韓国体操協会として何か関わることはありますか。

 それはもう、必ず来ます、はい。

 ――現在は、大学では主にどんなことを指導していらっしゃるのですか。

 体操の実技授業とスポーツ社会学を教えています。理論と技術と両方を。

 ――学生たちはどういう進路をたどるのですか。

 体育学科出身の半数以上は、中学、高校の先生になります。または、競技のコーチになる者もいます。

 ――教員とスポーツの指導者が中心なんですね。

 そうです。だから民間の体操のスポーツクラブとかがあれば、学生たちが行けるんです。職の幅が広がります。

 ――中京大で学んだ経験というのはどうですか。プラスになっていますか。

 これは私の思いですが、守能先生はいつもゼミの活性化というか、毎日ではなかったけれど、週に3回ぐらい、学生たちの発表会のようなことをさせておられました。それが一番良かったと思います。発表のために準備をしなくちゃいけない。いろんな論文も読まなきゃいけない。その準備というのがめちゃくちゃ苦しかったというか、難しかったんですけど、それがとても役立っていると感じています。

 ――今、韓国の学生さんにはそういうことを。

 やらせています、厳しく(笑)。

 ――今日はありがとうございました。中京大オリンピアンの会が発足したらぜひ、参加してください。

 何でも記念の会のようなことがあったら、ぜひ呼んでください。中京大学の家族の一員として参加します。

南勝久(ナム・スング)さん

1963年生まれ。韓国・光州出身。
82年に国立韓国体育大学校入学。84年のロサンゼルス五輪の体操競技に韓国代表として出場。卒業後、同大大学院と中京大大学院で修士課程を修了。さらに韓国体育大大学院で博士号を取得した。2005年に韓国体育大専任講師に。助教授、副教授を経て16年から教授。