飯田高子さん

 1976年モントリオール五輪女子バレーボールの日本チーム主将として金メダル獲得に貢献した。中学時代にバレーボールを始め、主に身長の高さを買われ、高校卒業とともに地元愛知の実業団チームを持つ帝人名古屋に入社した。ところが、繊維不況もあってチームは2年ほどで廃部。66年に中京大学に進んだ。体育教師を目指していたが、周囲が放っておかず、本格的に競技の道へ。72年のミュンヘン五輪では銀メダルを獲得している。女子バレーボール五輪金メダリストで唯一、大学卒の選手でもある。

社会人を経て中京大学へ

 ――帝人に入社後、中京大学に入学した経緯はどうだったのですか。

 ちょうど東京オリンピックの後ですよね。帝人名古屋でも多くの選手を集めて強化しようという時期でした。ところが2年ほどすると繊維不況などで福利厚生としてスポーツの部を維持することができなくなったようです。そんな時、中京大の下村(満年)先生からお話があったのです。

 ――以前から下村先生とは知り合いだったのですか。

 全然存じ上げません。それまで接点は何もありませんでした。高校1年の時、東海4県から174センチメートル以上の選手を集めた選抜チームに入ったんです。ただ大きいだけでしたけど。

 ――下村先生は飯田さんのことを知っておられたのでしょうね。

 多分そうですね。その時は中京大学だけでなく、社会人のチームの方からも、いろいろなところからお話がありました。でも将来のことを考えて中京大学を受けようと思いました。高校卒業の時も一応、東京の体育大学などからお話があったようなのですが、私ども、伊勢湾台風の後で大学にまで行ってバレーボールをするような環境にはなかったんです。それで企業に入って......。廃部ということになったので、今度は大学の方に、と考えました。

教員志望も、1年生で日本代表に選出

 ――先々、教員を希望していたのですか。

 まさに教師になりたいという目的で行ったのですけど。大学1年で初めて日本代表に選ばれ、アジア大会にも出場しました。2年ではユニバーシアード日本代表にも選出されました。でも卒業したら(バレーは)もうやらないつもりで教職課程の単位も取っていました。先生になろうと下村先生と相談しながらやっていたのですが。それが卒業も近くなった年の12月にまた、翌年のユニバーシアード日本代表の監督さんからどうしても参加してほしいと話があったんです。

 ――大学卒業後、2年間はユニバーシアードに出ることができますね。

 だけど、どこかのチームに所属しなくてはいけないんですよ。そうしたら卒業を前にいろいろな企業チームから声がかかりました。日本を代表する日立とかユニチカなどからです。

 ――そんな中でヤシカを選ばれたのですね。

 私は教員になろうと思っていましたから。ユニバまでやって。企業チームの中でヤシカは、「1年だけでもいい」と勧めてくれて。それで選びました。他のチームには電化製品一式とか、さまざまな条件を付けてきたりするところもありました。そしてヤシカに入った年に当時行われていた都市対抗大会に出て、世界選手権の代表に急きょ追加されたんです。

バレーボール界期待の星に

 ――活躍が認められて日本代表に入ったわけですね。そうするとユニバーシアードと世界選手権の両方になったのですね。

 そうです。本当に大変でした。1週間、ユニバーシアードの合宿に参加して、今度は1週間、世界選手権の合宿というようなこともあって。

 ――東京のヤシカに入って日本代表にも選ばれると、愛知県で教員になろうということも難しくなったでしょう。

 ヤシカは1年でもいいからという良い条件を出してくれて、初めはユニバが終わったら(教員になろう)と思っていたのですが......。

 ――しかし、周りはそうさせてくれなかったようですね。

 日本は1964年の東京五輪で当時のニチボー貝塚(現・ユニチカ)を主力としたチーム、つまり東洋の魔女ですが、圧倒的な強さで金メダルに輝きました。しかし、4年後のメキシコ五輪は日立(当時は日立武蔵)を中心としたチームで連覇を狙っていましたが、ソビエト連邦に敗れ、銀メダルに終わりました。だから72年のミュンヘン五輪は何としても金メダルを、ということでユニチカの小島孝治監督のもとで編成された日本代表に入りました。

モントリオール五輪で金メダル獲得

 ――プレッシャーは大変だったでしょうね。

 国民の皆さんの期待も金メダル一本の感じでした。銀メダルは負けですから。ミュンヘン五輪の決勝もソ連との対戦になりました。そしてフルセット2-3で負けました。私はサーブのミスもありました。今、思い出しても涙が出ます。日本に帰れないと思いました。準決勝のブルガリア戦で0-2から逆転勝ちした男子は決勝では東ドイツに勝って優勝しました。東京で銅、メキシコで銀、そしてミュンヘンでは金メダルですから。羽田(空港)に降りた時、男子は大声援を受けましたが、私たち女子は居場所がないような気持ちでした。

 ――次の76年モントリオール五輪で金メダルに輝きましたよね。主将として。

 ミュンヘンの後、(バレーを)続けるつもりはなかったんです。実際、一度引退しました。だけど山田(重雄)監督から依頼があって、何とか継続してやってもらえないかと。コーチ兼任で迎えてくださったんです。

 ――キャプテンでもあったんですよね。日立監督だった山田さんは日本代表チームの監督として勝つために飯田さんの力を借りたかったのでしょうね。

 日立中心のチームでしたからお飾りのキャプテンでした。私の力を借りなくても大丈夫だったんでしょうけど、私が日立チームの年長選手よりも5、6歳年上でしたから。

 ――チームをまとめるのは大変だったでしょう。普段から一緒にいるわけではなかったでしょうから。

 だから泣かない日はなかったですね。ある時はのけ者にされたり、また、ある時は必要とされたり。冗談じゃない、と思いながらやっていました。

 ――でも日本に金メダルを取り返す立役者になられました。

 当時はみんな、わがまま放題と思えるようなチーム状況でした。だから本当に大変だったけど、自分で言うのも何ですが、私の性格だからできたんですよ。上から押さえつけるようなタイプではないですから。

 ――それが良かったのですね。

 と、思いますね。威張らなくて良かったなって。中京大で育てていただきましたからね。下村先生もそういう感じの方ですもんね。「俺が、俺が」じゃないから。

女子バレー金メダリストで唯一大学卒

 ――中京大学のバレーボール部は、当時どんな様子でしたか。

 八事のアウトコートで興正寺の方にありました。講堂は体操部などが使っていましたが、私たちは室内で練習した記憶はないですね。

 ――体育学部が豊田キャンパスに移る前ですね。

 4年間、八事でした。まだ競技がそんなに多くはなかった。ソフトボールや卓球はありました。あとはバレーボール、野球、体操。陸上の斎(辰雄)先生にはかわいがっていただきました。野球の瀧(正男)先生にも。それから陸上女子の梅村すみ子先生。オリンピック選手でした。その当時、私はオリンピックのオの字も分からなくて......。すみ子先生が「飯田さんはスナップがいいから砲丸投げをやるといい」と言われました。私たちのバレーコートは高台、陸上は下の方でよく見えたので、すみ子先生が声をかけてくださったんです。

 ――入学当初、1年生とはいっても、飯田さんが帝人でバレーボールをやっていたことをみんな知っているわけですよね。

 だから、お前が全部フォローしてやれ、と言われました、先輩にね。私は1年生だ、って言いたいんだけど、まあ、ちょっとは経験していたから。私のところに(ボールを)上げてとか、持って来てとか言いながらやっていました。先輩方にかわいがっていただいた。だけど1年生なのでコート整備はしなきゃいけないし、練習開始の1時間前にコートに石灰でラインを引かなきゃならなかった。ユニバの合宿などで抜けることも多かったので、「イイ(飯)ちゃんはいい思いしている」って言われるんですけれどね、同級生にね。

 ――でも、いい思い出ですね。

 中京大学に行って良かったです、本当に。実業団主流の女子バレーボール界にあって、五輪金メダリストで大学生(を経験しているの)は私一人ですから。

飯田高子(いいだ・たかこ)さん (現・神白<かじろ>高子さん)

1946年、愛知県生まれ。
名古屋女子商業高校(現・名古屋経済大高蔵高校)卒業後、帝人名古屋に入社したが、バレーボールチームが廃部となった。体育教師を目指して66年に中京大学に入学。卒業の際、強豪実業団から複数の勧誘があり、ヤシカに入社。70年のユニバーシアード、世界選手権、アジア大会でメダル獲得、72年ミュンヘン五輪は銀メダル、76年モントリオール五輪では主将としてチームを引っ張り、念願の金メダルに輝いた。埼玉県草加市在住。同市をはじめ県内各所で様々な年代層に対してバレーボールの普及や大会を企画、運営するなど今も活動を続けている。2017年には文部科学大臣から「生涯スポーツ功労者」の表彰を受けた。