湯浅景元さん

 スポーツ科学部は、旧体育学部から数えて2018年で発足60年目を迎えた。同学部で43年間、教員として活躍。浅田真央、小塚崇彦、室伏広治ら多くのアスリートを育てた中京大学名誉教授の湯浅景元さん(元競技スポーツ科学科教授)に、豊田キャンパスに移転した当時の学部の様子、印象に残る思い出などを聞いた。

当初は計測機器を手作り

 ――スポーツ科学部の歴史に深く関わってこられた。体育学部が豊田キャンパスに移転されて間もなく中京大の教員になられた。当時の様子を教えてください。

 1975年に豊田キャンパスに着任した時は、建物もほとんどなく、舗装もしていないため、今の4号館では、雨の日は泥で滑って転倒者が多かったですね。みんな泥を靴に付けて教室に入ってくるので、雨が降ると大変だという時代でした。

 予算の関係から、選手が地面を蹴るときにかかる力を測る重さ200㌔のフォースプレートを手作りしたり、姿勢変化が酸素摂取量や心拍数に及ぼす影響を調べるために自転車を固定する装置を作ったり、工作作業をしながら研究を続けていました。

 名古屋から豊田キャンパスに移転した当時(1971年)の先生らは、自費で寮をつくるなど大変なご苦労をされた。そういう下支えがあったところに私が来たわけで、落ち着き始めたちょうどいい時期だったと思います。

 ――スポーツ科学を目指した理由は何だったのですか。

 きっかけは祖父母です。共に5年ほど寝たきりになり、最後は自宅で亡くなった。私は子供だったが2人を看取っています。それが縁で医者になろうかと迷ったこともありましたが、子供なりに考えた医者というのは、病気になった人を助ける人というイメージ。そうでなく、なるべく病気にさせないため何かできないかと思ったとき、ハッと頭に浮かんだのが体育の先生でした。

 小学校の時、とても壮健な体育の先生に接し、「ああなれたらいいな」という思いを持ち続けて中学、高校を過ごしました。たまたま、高校2年のとき、校長から進路について「君は健康な人づくりに役立ちたいということなので、体育方面に進んではどうか」と言われ、中京大学体育学部に推薦入学できました。大学では運動生理学研究室に入って学びました。

 卒業時には教員採用試験で採用校が決まっていましたが、祖父母の思い出もあってさらに勉強したいと思い、当時国立大学の大学院として唯一、体育学の修士課程があった東京教育大学を目指し、2度目のチャレンジで合格。修士課程修了後、中京大学体育学部に教員として勤めることができました。

三段跳び金メダルの田島さんが印象的

 ――中京大で学んだ時に、印象に残っている先生は。

 ベルリン五輪(1936年)男子三段跳びで金メダルに輝いた田島直人さんは陸上の先生で、私が教員になっても長く中京大に在籍された。実技の時間、「陸上競技場に座布団を持ってこい」って言う。1周400㍍走ったら、「はい、座りましょう」と言って、オリンピックの話をしてくれました。2階や屋根から飛び降りてトレーニングしたとか、初めて海外に行った時、外国人選手に負けないため、練習では踏み切り板よりも1㍍手前から跳んで相手選手を驚かせたとか、いろんな逸話を聞かせていただき、感動させられました。

 斎辰雄先生が体育学部長の時は、墨絵を使って運動の分析に非常に役立つ助言をしていただきました。斎先生の絵は、理にかなったものです。その影響を受けて、私の授業でも、学生たちには絵を描かせるようにしていました。

 ――体育学部長だった2011年、スポーツ科学部への改組に道筋を付けました。どんな狙いがあったのでしょうか。

 「体育」という言葉自身が、ある意味非常に狭い言葉です。私は、中京大学としては体育学部をもっと広い視点で捉えていたと思いました。体育という日本限定のものより、国際的にも通用する呼称を、ということで、たまたま学部長の時に梅村清弘総長・理事長から提案を受け、私なりの考えも述べてゴーサインをいただきました。

多彩な教え子たち

 ――多くの教え子がいます。思い出深い学生を何人か挙げていただけますか。

 まずは、順天堂大学女性スポーツ研究センター長であり同大学の教授をしている小笠原悦子さん。1年生の時に水泳部に入ったが、思うように活躍できず、「将来はコーチになりたい」と相談を受けたことがあります。彼女は日本初のシャペロン(オリンピック女子選手村での世話係の女性職員)となりました。現在では、女性アスリートの育成と支援に尽力しており、社会のために有意義な活動を続け、功績をあげた女性に贈られるエイボン功績賞や国際開拓者賞などを受賞しています。

 浅野典子さんという水泳の選手は、「学術とスポーツの真剣味の殿堂たれ」という梅村学園の建学の精神を具現化したといえる生徒でした。ミュンヘン五輪(1972年)で入賞したうえ、授業の出席率は90%を超えていたのでは。卒業時、練習日誌など彼女が書いたものは私の背丈ほどありました。

 私のゼミ生だった室伏広治さんは、お父さん(室伏重信氏)とも深い付き合いがありました。広治さんは中京大学大学院でハンマー投げを続け、記録の伸びない時期が来て、これをブランコの研究で解決し、博士論文につなげた。ブランコは立ちこぎするときに必ず膝を曲げ伸ばしする。ハンマー投げも同様。ところが、回転をしないといけないという思いしかなかった。しかし、そうではなく、上下動も加えると記録も伸びるという理論を論文にして博士号を、さらにアテネ五輪で金メダルも取りました。

 ――スケート部長として、多くのフィギュアスケート選手も世に送り出していますね。

 スケート部は創立以来、清弘先生が部長を務められてきたが、総長・理事長になられてお忙しいということで私に引き継がれた。当時の清弘先生には、ショートトラックの寺尾悟選手や勅使川原郁恵選手を五輪に送り出すという狙いがあったと思いますが、私はアートとしてフィギュアスケートもやらせてほしいとお願いしました。

 浅田真央さんについては、「さりげない対応」が印象に残りますね。バンクーバー五輪で銀メダルを取った後、一緒に当時の鈴木公平豊田市長を表敬訪問した時、浅田さんは送迎してくださった運転手の方に「運転ありがとうございます。このアメをどうぞ」と言って渡したのです。相手を思いやる人目に立たない行動に感心した思い出が多いですね。他にも、安藤美姫選手、小塚崇彦選手ら印象に残る生徒はたくさんいます。

コーチングの授業を立ち上げ

 ――教員として中京大でこれまで最も力を入れた分野は。

 コーチングです。私が勤め始めたころは体育方法学という授業で、東京教育大学から中京大に移られ、体育学部長もされた浅川正一先生が始めました。私は浅川先生の授業を引き継ぎ、5年ほどかけて名称や中身の変更をお願いし、コーチングを授業として立ち上げました。

 スポーツ科学が目指すものはトレーニングとコーチングだと思います。トレーニングは体力や技術を高める能力を養うものです。そして、養われた能力を発揮できるように支援するのがコーチングの役割です。私が勤め始めたころの中京大学では、トレーニングには科学の目が向けられるようになりつつありました。でも、コーチングについては経験に基づく方法がとられがちで、科学を活用する雰囲気はあまりありませんでした。それも仕方ないことだったかもしれません。トレーニングは多くの選手に共通して活用できる理論があります。しかし、コーチングでは向上する答えは選手の側にあり、それを引き出してあげる方法はまさに百人百様です。学問として成り立ちにくい性質のものです。

 無謀かもしれませんが、私はコーチングを一つの学問として成立させたいという希望がありました。「コーチング論」を「コーチング学」へ発展させたいという夢です。幸いにも、中京大学スポーツ科学部ではコーチングを主要な科目に置き、「コーチング学」へと発展させる努力が今も続けられています。

 コーチングは応用が利くので、さまざまな分野に取り入れてもらうのが夢です。すでに、自動車会社の社員や医師や看護師などを対象とした講習会に招かれるなど、スポーツ以外の分野でコーチングを普及させる仕事が始まってきました。

 ――今後も予定されている活動はありますか。

 小中高、特に小学校の講演会は、体の許す限り引き受けていきたい。なぜなら、小学生の時の講演で私の話を聞いたことが縁となり、中京大学スポーツ科学部に来てくれた学生が、かれこれ十数人もいるんです。子供たちにスポーツ科学の大切さや面白さを伝えてあげたいという気持ちが強いのです。

 それから企業との連携は、中京大生の就職先をつくってあげたいという思いから、もし声が掛かればいくつか続けさせていただこうと考えています。

湯浅景元(ゆあさ・かげもと)さん

1947年生まれ。愛知県出身。
中京大学体育学部卒。体育学修士・医学博士。コーチング論、バイオメカニクス。75年中京大学体育学部助手、86年教授。2006~10年度体育学部長、09~12年度梅村学園評議員。中京大学名誉教授。『老いない体をつくる』など著書多数。野球、スケート、大相撲などスポーツ選手の動作解析で知られる。