室伏重信さん

 陸上競技ハンマー投げ選手としてアジア競技大会5連覇を成し遂げるなど、かつて「アジアの鉄人」と呼ばれた中京大学名誉教授の室伏重信さんは、1980年から31年間、中京大学で教鞭を執った。学生たちを指導するとともに、就任当初は現役競技者として一時代を築き、日本中の注目を集めた。もちろん中京大学のオリンピアンの一人でもある。現在の住まいは東京だが、4月末に名古屋を訪れた際、お話を聞いた。

中京大学で開花、ハンマー投げ4回転投法

 ――中京大学に来られた1980年は、日本が参加をボイコットしたモスクワ五輪の"幻の代表"になられた年でした。

 モントリオール五輪(1976年)を終えて競技生活もこれが最後だと思い、所属の大昭和製紙から、出身校の日本大学の三島学舎に移り、専任講師をしていました。2年間くらい勤めていたころ、中京大におられた棒高跳びの安田矩明先生(体育学部教授)から、「中京大に来ないか」と電話があったのです。何度も何度も。それで日大の上司と相談して、「(中京大でやってみたい)気持ちがあれば仕方ない」と言われた。そうしたら梅村清弘先生(当時体育学部長、1980年4月から学長)が来てくださった。「ぜひ」と勧誘されました。

 ――そのころはどこで練習していたのですか。

 実は日大に(講師として)入ったころはやめていました。なかなか練習ができないだろうと思ってね。思いっきりハンマーを投げられる状況にはなかった。危険ですからね。グラウンドは多くの学生、生徒たちも使っていますから。

 ただ、中京大に(来ることが)決まる前ですが、静岡陸協(陸上競技協会)から国体に出てほしいと依頼がありましてね。それまで1年余り練習していなかったのですが、沼津市にあった大昭和製紙のグラウンドを借り夏に集中的に練習して国体に出てみたのです。そうしたら優勝しました。記録は65メートルぐらいで、やっぱり低くなっていました。日本選手権も67メートルぐらいで優勝でした。モントリオール五輪の前年の30歳で始めた4回転投げのレベルアップをすることも考えての練習と競技会参加でしたが、この4回転投げには可能性を感じましたね。

 ――4回転といえば室伏先生というイメージがあります。

 4回転投げの可能性を感じていた私が中京大に赴任し開花したのは、学生の指導と同時に、自分自身にとっても練習環境が良くなったからです。しっかり練習できるようになりました。こんなこともありましたね。ソフトボール場の裏にあった投てき場は当時空き地となっており、アメリカンフットボール部が使っていました。そこをハンマー投げ専用のグランドに復活させようと思い、水泳の鶴峯(治)先生と相談し、プールの横の空き地をアメリカンフットボール部に使ってもらうことになったのです。ここから本格的ハンマー投げの専用練習場になり、また公認申請もして公認グラウンドになったんです。そして1982年の春、72メートルの日本新、アジア新記録をここで私が投げました。

「スポーツは文化です」

 ――そこからまた、記録が向上しました。

 そうですね。梅村清明先生(当時理事長)にすごくかわいがっていただいた。清明先生は愛知陸協の会長もされていた。奥様のすみ子先生(当時陸上競技部コーチ)ともども陸上競技が大変お好きでね。陸上競技部の部会にも足を運んでくださったり、(大学の)陸上競技場ではすみ子先生が学生の練習のスターターをやったり、もうすごかったです。私はそれに救われました。

 ――清明先生とすみ子先生の存在は大きかったですか。

 私の母が短距離選手だったころ、紀三井寺(和歌山市)競技場で行われた全国合宿に参加したようですが、先輩のすみ子先生はもう超一流選手だった。そんなわけで母からの話ですみ子先生を知っていました。 清明先生は長距離選手だったのですが、これもまた非常に文化的な才がすごい。書も絵も素晴らしかった。そういうものが私は非常に大事だと思っています。スポーツも文化なんですよ。清明先生は学歌も作られ、とにかく幅広い。そういう人がトップにいてリーダーになるっていうことが、大学は大きな恩恵を受けていたんだなあと思いますね。

アイデア出して、体を動かす

 ――ハンマー投げの極意は。

 ハンマー投げは、ウエートトレーニングとかダッシュやジャンプだとかをやりますが、根本はその力をうまく利用する技術が重要なのです。テクニック。それは陶芸や絵を描くことと一緒です。モノ作りには奥義がありますよね。どうやって作っていくか、より良い動きを実現させるため一投一投自分で実験し確かめるのです。自分のアイデアを表現するのです。ということは自分のアイデアのレベルを高めることがパフォーマンスを高めることに繋がるのです。当然スポーツであればそれを表現できる体力が必要になりますが。

 ――アイデアを得るにも研究が必要ですよね。

 日大のグラウンドでオリンピック選手の菅原(武男)さんや石田(義久)さんと一緒に練習をしていたころは、8ミリカメラで撮影して研究しました。二人の先輩はメキシコ五輪に出場しましたが、私は行けなかったものだから、主に両先輩(の投てきフォーム)を撮らせてもらったんです。

 ――8ミリだと大変では。

 現像に1週間かかります。映写機も借りて、部屋のふすまに映します。それを1日10時間。膝から下の動きの部分だけを3時間見たりして、研究に没頭しました。フィルムが擦り切れてテープで繋ぐこともよくありました。そうしながらつかんだアイデアを表現する、そこから始まったんです。そこから記録もどんどん伸びていきました。ただし、そのアイデアも法則の中のものでなければなりません。そうでないとそのアイデアは無駄になってしまうからです。

研究に没頭、完璧めざした

 ――100パーセント完璧というのはなかなか難しいでしょうね。

 そうです。ただし、レベルは上がっていきます。でもね、30歳代ぐらいになると、投げても、今のは完璧じゃないなというのも分かる。周りから見ていると完璧に見えてもね。だから35過ぎたころはオリンピックなんてどうでもよくなっちゃってね。練習のときでもいいから完璧な投げをしたい、公認されなくてもいいからと思うようになったんです。本当に。

 ――もはや競技から外れて、芸術の域ですね。これまでのハンマー人生で完璧はありましたか。

 長い選手生活でさまざまな研究、体の移動、重心の位置、いろんなものを含めてやってきて、すべて分かっていて何年もやっているのに、会心のものは1、2本しかないです。だけど私はいろいろと実験できて良かったと思っています。特に難しいハンマー投げでね。90キロ前後の体重しかなくて、110、120キロの連中を相手にしてくることができましたから。力、それはやっぱりあった方がいいですね。

学生への指導、人に焦点を当てる

 ――学生への指導で大切にされたことは。

 モノづくりですよ。ただ、それぞれの学生によって個性が違います。この子にはこういう問題があるというふうに。ある面、医者みたいなものですね。この学生の投げはどこかおかしいぞと言うところから観察を続け、問題を探っていきます。かなり深いところまでいかないと分からないことが多いですね。それは自分の勉強にもなりますね。

 試合の勝ち負けというよりも、根本にどうしたら人を伸ばしていけるかということを考えていかないと伸びませんね。特に教育はそうでしょう。だから私は個々の学生、選手を観察し、よく話もしてその人にあった指導を心がけるようにしていました。

 ただね、大学に入って来る前に、そういった指導を受けられる場があると、さらにいいと思っています。子供のときからさまざまな競技に触れることのできるスポーツクラブは大事ですね。身近にスポーツを体験できる、さまざまなスポーツのクラブ制度を日本中で作り上げることは大切なことだと思います。

室伏重信(むろふし・しげのぶ)さん

1945年生まれ。
68年4月、日本大学卒、大昭和製紙入社。80年中京大学体育学部講師、82年助教授、89年教授、2011年度退職、名誉教授に。陸上競技ハンマー投げで日本選手権10連覇を含む12度の優勝、アジア競技大会5連覇など輝かしい成績を残している。長男、広治さんはアテネ五輪ハンマー投げ金メダリスト(現在JOC理事)。長女の由佳さんもアテネ五輪ハンマー投げ日本代表。