後藤則応さん

 中京大学校友会の北海道支部は、2019年に創立50周年を迎えており、全国の校友会支部の中でも長い歴史を持っている。後藤さんは学生時代から北海道出身学生の集まり「道人会」を作り、卒業後は故郷で高校教員をしながら、同窓生の名簿を作り、支部発足につなげた。支部創立50周年の記念式典・祝賀会が行われた7月末に、後藤さんに支部発足の経緯や活動などを聞いた。

「道人会」が校友会北海道支部の母体

 ――在学時代から同郷の学生が集まっていたのですか。

 私が体育学部2年生だった1962年(昭和37年)に、北海道出身者の集まり「道人会」を発足させました。渡辺竜策・教養部教授が会の発足を呼び掛けたのがきっかけでした。最初は1年生から4年生まで65人が会員となりました。初めての会は、その年の6月2日に名古屋市内のサッポロビール園で開きましたが、19人が出席して交流しました。
 この「道人会」が元になって、卒業後に北海道に帰ってきた同窓生は、みんな集まりを続けようと手伝ってくれました。「集まる人が少なくてもいいからやりましょう」と言ってくれて。こうした同窓生同士のつながりが発展して、7年後の1969年(昭和44年)に正式な校友会(同窓会)北海道支部の誕生になりました。

 ――支部ではどんな役割を果たしましたか。

 私は支部が発足した時から24年間にわたり事務局長を務め、2004年(平成16年)から6年間は第4代支部長を経験しました。私の支部長時代に、支部の会員が1000人という規模に発展しました。体育教員を中心に教員も多く、2008年(平成20年)には教員による支部の学校部会を作りました。学校部会の会員は現在250人います。

 ――支部の運営で苦労されたことは。

 名簿作りが大変でした。同時に北海道同窓会の会則づくりに努めました。最初に名簿を作るのに、3年も4年もかかりました。手書きで作ったものを配ると、「この人が入ってない」といった連絡がどんどん入ってくる。北海道は広いものですから、教員は3年経つと転勤が多い。新しい情報を聞いたら、すぐに赤ペンで書いて作り直す。当時はパソコンがないし、ガリ版で印刷しました。

体育教師を目指して中京大学へ

 ――後藤さんご自身は体育教師を目指して中京大学に進学されたのですか。

 私は道東の標茶町で高校を出た後、町の教育委員会の手伝いをしていました。小中学校を回るうち、教員になるといいな、と思いました。高校の担任の先生も後押しをしてくれて、「(卒業後は)北海道に帰ってきて、教員をやってくれないか」と言われました。推薦で受けましたが、梅村清明先生から父親あてに手書きの封書をもらい、担任も「中京大学はしっかりしている」と喜んで、「内申書を書くから、ぜひ中京大学に行け」となりました。当時は、標茶町から大学に行くのに2日半はかかりました。

 ――学生時代はどんな生活を送りましたか。

 勉強以外に特技を持ちたいと思い、1年生の時は体操競技部に入りましたが、オリンピックで金メダルを獲得した中山彰規・中京大学名誉教授が同級生でいるなど、レベルが違いすぎた。部活は1年で辞め、三浦学園(中部大学)の高校でソフトテニスのコーチをアルバイトで始めました。
 ソフトテニスは中学生のころからやっていたので自信があった。7人兄弟で、父親は国家公務員だったから、家計的には苦しかったこともあります。その高校ではソフトテニスを教えるだけでなく、講師も頼まれて実技の授業もやりました。中京大学の先輩もいて、「俺のやり方も教えるから、心配しないでやれ」と励まされました。大学へは一日も休まずに行き、合間に高校の仕事をしていました。教育実習もこの高校でやりました。学生時代から高校で指導した経験は自分の財産になりました。

ソフトテニス普及に尽力

 ――北海道に戻り、高校教員を務めながら、ソフトテニスの普及にも尽力された。

 北海道ソフトテニス連盟の副理事長、審判部長をやりました。新しいルールになると、週末に稚内をはじめ各地で講習会を開き、新ルールの解説をしました。高校生の北海道チームを引率してハワイに28回遠征しました。向こうでホームステイし、交流試合をやる。英語もしゃべれるようになる。テニスだけでなく、国際的にもっと勉強させるようにしました。
 私は国際審判員の資格を持っています。北海道では私だけです。特に1987年には、審判講習会の講師として中国の上海、広州、昆明に派遣され、大学教授らに指導したこともあります。教員を退職した後は、ソフトテニスをオリンピック種目に加入させるため、日本連盟から派遣されて、普及していなかった欧州、中南米など27か国を9年間かけて回り、世界大会の審判もやりました。

 ――北海道支部の特徴、今後についてはいかがですか。

 我々はみんな団結して、仲がいいのです。北海道にある関東の大学の同窓会はあまりうまくいっていないようですが、中京大学の同窓生は違います。縦のつながりではなく、横のつながりを大事にするようにと常に言って、会員と接しました。今回の創立50周年記念式典には、梅村清英総長・理事長をはじめ、中京大学から多数きていただいたように、大学とのつながりも強いと感じます。それと、同窓会の活動を続けていくには、会計報告をきちんとやれる人がいないといけないと思います。
 学校部会の先生たちには、校長、教頭、指導主事になるよう励ましています。私が支部長をやっていた時は、校長、教頭が中学校で約30人、高校で16人いたことがあります。今は教員の採用は絞られていて、教員採用は厳しいですが、教員を目指す同窓生は、引き続き支援していきたいと思います。

後藤則応(ごとう・のりお)さん

1941年生まれ。
北海道立標茶高校卒。1964年度中京大学体育学部卒業。北海道立北檜山高校を振り出しに、北海道立高校7校で計37年間教えた。妹背牛(もせうし)商業高校、枝幸高校、江別高校では教頭を務めた。北海道ソフトテニス連盟の副理事長、審判部長を務めるなど、ソフトテニスの普及に尽くした。現在は札幌市の学校法人吉田学園顧問、北海道ソフトテニス連盟参与も務める。