深谷弘次さん

 深谷弘次さんは、2018年11月10日に90歳5か月で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。
※掲載のインタビューは2017年12月18日に行われました。

 夏の甲子園3連覇をはじめ、昭和初期の中等学校野球をリードした中京商業だが、戦時中、商業学校が女子校になったこともあって戦後はしばらく低迷した。昭和20年代の終わりから30年代の中京商業高校を指導者として支えた深谷弘次さんに、伝統の「中京野球」復活に向かった当時の体験や見聞について聞いた。

清明先生に誘われ監督就任

 ――深谷さんは中京商業から日本大学に進学されましたが、母校中商の監督に就任されたきっかけは何でしたか。

 当時校長だった梅村清明先生(学校法人梅村学園理事長)に誘われました。日大3年のころからです。大学の監督のところに清明先生から連絡があり、「校長先生から何回か連絡があるんだけれど、いっぺん行ってこい」と言われましてね。3年の秋でしたが、八事に行きました。その時、いろいろと話してくださいました。

 ――そうすると大学3年の時に監督を引き受けたのですか。

 だけど僕は人前に行くのが苦手でね。甲子園でも野球をやるのは何ともないのだけれど、行きと帰りにたくさんの人とあいさつせなあかんでしょう。それが嫌でね。4年生になっても決心がつかなかったので、先生のところへ全然連絡していなかったんです。そうしたら会った時に「深谷さん、もう時間割組んじゃっているから来なきゃいかんぞ」って言われました。親父に話したら、「そんなにおっしゃってくださるんなら、お前行かなきゃいかんぞ」と言うもんでね。昭和28(1953)年の3月の終わりにお世話になります、と言いました。

瀧正男先生と二人三脚

 ――あの当時、瀧正男先生にも清明先生から声がかかったようですね。部長として。

 それは清明先生から聞いていました。それで僕が3月に中京商業高校に入って、4月に瀧さんが入られたんです。

 ―中京商高は昭和29(1954)年に戦後初めて優勝していますね。それは深谷さんが監督だったわけですね。

 はい。それで瀧先生が部長。二人でやっていました。だけどね。梅村(清明)先生のおかげで勝ったといった方が本当なんですよ。僕や瀧先生で勝ったんじゃない。野球をやる環境といいますか、それをつくられたのが清明先生。戦後、昭和24(1949)年にシベリア抑留から帰って来られて、弱くなっていた野球を強くしようとやってこられた。その力がどれだけ働いたかわかりません。

 ――清明先生は深谷先生と瀧先生の協力体制もつくられた。

 本当に協力してやりました。だから本当の力が出てきたわけだよね。僕も野球やってる、瀧先生も野球やってるという、こういう人事は摩擦が起きて、時に空中分解しますよね。「俺が、俺が」になっちゃうんですよね。だけどそれは清明先生が絶対そうならんように、ちゃんと重きをなしとったということもいえるし、人物を見て、これとこれならいいだろうと、連れて来たともいえるんじゃないでしょうか。

 ――瀧先生と深谷先生の役割分担はあったのですか。

 清明先生は、「瀧先生は部長でも監督を兼ねるような形で」と言われた。そして、僕は「監督と瀧先生を補佐する役割をやってください」と。それで「ノックやそういうことすべてを深谷さんがやりなさい」と言われたんです。それでも最初は瀧先生もバントの指導をされたんですが、「先生、やめてください。僕が教えるから」って言いました。それからは技術面はもう、全部僕に任せっきりになって。瀧先生も納得してね。「深谷さん、あんたうまいね」なんて言われてね。

基礎を築いたのは清明先生

 ――清明先生の思った通りになったんですね。

 梅村先生が本当に細々と計算されたかは分かりませんが、直感にしても何にしても、きちんと土台を作られた。それからもう一つ。清明先生は毎日のようにグラウンドに来られた。今日は見えんだろうと思っていると、遅くなってからでもさっと出て来られる。グラウンドに顔を出されると、選手たちの間で緊張感が走るのが分かるんですよ。それは部長の瀧先生も僕も一緒でしたね。

 ――当時のグラウンドは、野球部だけじゃなくて陸上とか他の部もやっていたんでしょう。

 陸上も他もすべてやっていました。それから夏になると、清明先生は木に登って枝を切るんですよ。「深谷さん、この木を高台に保管して、冬、薪にしてください」って。それで今、「留魂」っていう碑があるでしょう。あそこの前に大きな穴を掘って火を焚くんです。選手たちはそこで手を温めてバッティングなんかもやるんです。清明先生は厳しいだけじゃないんです。

 ――戦後、中京の強さが復活したのは「清明先生の力が大きかった」というのはそういうことなんですね。

 それを知っとるのは僕一人しかもういないからね。それで焼き芋を焼いてみんなで食べたんですよ。清明先生も食べておられた。厳しいけれども、また反対にみんなを緩めて楽にしてくれる。両方をやられたから、僕は偉いと思うんですよね。
だから、もう戦後の基礎は梅村清明先生です。瀧先生も僕も、清明先生を、お手伝いさせていただいたということだと思っています。

深谷弘次(ふかや・ひろじ)さん

1928年生まれ。愛知県出身。
53年4月、日本大を卒業し、母校・中京商業高校野球部監督に就任。野球部長に就任した中京商の先輩、瀧正男さんとともに昭和30年代の中京商黄金期を支えた。その後、三重高校、再び中京高校(旧中京商)の監督を務め、中京大学硬式野球部でも采配を振るった。