水谷研治さん

 エコノミストの水谷研治さんは、中京大学経済学部の教授時代に、豊富な経験に裏打ちされた「生きた経済学」を学生たちに教えた。学校法人梅村学園の理事などを務め、学園の運営にも深く関与した。1980年代の日米貿易戦争の最中、都銀の調査部長として、1ドル150円の相場予想を的中させてマスコミにもたびたび登場した。今も名古屋大学で教壇に立つ水谷さんに、中京大学時代の思い出、将来への期待などを聞いた。

経済学部の発展期に着任

 ――中京大学の教員となったきっかけを教えてください。

 東海銀行(現・三菱UFJ銀行)在籍中から、名古屋大学などの非常勤講師を務めていたのですが、東海総合研究所社長の折、かねてから交流のあった梅村清弘氏(当時の梅村学園総長・理事長)からお誘いがありました。出身の名古屋大学経済学部の恩師、塩野谷九十九先生のもとで学んだ中京大学の当時の沈晩燮経済学部長にも説得されて、1999年に経済学部の教授に就任しました。

 それまでにも、経済学部の特殊講義で講師を務めさせてもらったことはあります。中京大学と中部経済同友会が主催し、1987年に始まった「景気シンポジウム」では、基調報告者として最初から参加していました。同じく中部経済同友会も関係した経営者講座の講義を受け持ったこともあります。

 ――「景気シンポジウム」は例年年末に開かれ、水谷先生の翌年の経済見通しを聞こうと、参加申し込みが殺到するほどの人気でした。着任された当時の経済学部はどんな様子でしたか。

 設置されて10年ほどで、活気にあふれていました。意欲的な若手の教員が多く、学生との触れ合いにも力を入れていました。新入生のオリエンテーションで1泊旅行があって、教員全員が参加して浜名湖方面に出かけましたが、移動するバスの中から講義が始まっているような感じで、学生との意見交換も活発でした。とにかく、まとまりがよかったですね。私は、日本経済論、財政政策、金融論などを担当していました。授業で強調したのは、「私の経験のすべてを、学生たちが吸収して、学びに役立ててほしい」ということです。経営者や官僚、政治家、評論家、海外の要人の方々との交流で得た、とっておきの情報・知識も講義の中で披露することもありましたね。

 ――中京大学経済学部は、教員の博士号の取得率が高いことで知られています。

 私も東海銀行時代に博士号を名古屋大学で取得しました。当時の銀行業界では、博士号を持っているのは日銀の方と私の2人だけでした。それがエコノミストとして強みになったのです。私が強調していたのは、教員も自分の専門分野だけの狭い知識にとどまらず、経済全般について精通しなければならないということです。名古屋大学名誉教授の飯田経夫先生は「経済のことを一番知っているのは、中小企業の経営者や鉄工所の親父、それに新聞記者や評論家だ。学者が一番経済のことを知らない」とおっしゃっていました。中京大学経済学部は若手の有望な教員を採用していましたが、当時の博士号はまだ貴重でした。当時、経済学部の教員だった梅村学園の梅村清英総長・理事長にも博士号の取得を勧めたところ、改めて努力を重ねて博士号を取られたのには敬服しました。

学園の経営にも関与

 ――梅村学園の理事、評議員、学術顧問として、学園経営にも関与されました。

 梅村清弘氏に心服し、協力させていただいただけです。清弘氏は、私学の抱える問題にきちんと向き合い、壮大なビジョンを描いて、その実現のためには徹底して取り組む、類いまれな人でした。キャンパスを一新し、アイススケートリンクや50㍍プールなど、最高水準の設備を豊田キャンパスに整えました。そして、新学部・学科の新設を進めるなど、総合大学としての基礎をしっかりと創り上げました。私は助言する程度でした。

 ――現在も名古屋大学で教壇に立たれていますね。

 名古屋大学経済学部の客員教授として、春学期は大学院「修士課程社会人コース」で、秋学期は学部の3、4年生に「日本経済論」を教えています。「修士課程社会人コース」は、中京大でのMBAビジネス・イノベーション研究科で得た経験が生きています。社会人を対象に一流の経済人を育てるのが狙いで、講師陣も教授のほか実務に長けた経営者などで編成しています。

今も生きる中京大での経験

 ――中京大学のMBAビジネス・イノベーション研究科(2017年度以降、募集停止)は、2003年、社会人を対象に高度専門職業人を養成するため開設し、2代目の研究科長を務められました。

 あの時も、学者だけではなく、一流の経済人を講師に招いて、次代を担うビジネスリーダーや中小企業診断士を養成する目的で開講したのですが、勉強する気持ちがあっても、会社で重宝されているビジネスマンは通学の時間が取れないし、講師として予定していた一流の経営者は多忙を極めた。やる気があっても教壇に立つ時間がないということで、構想どおりにはいかず残念です。

 ――金融マンとして活躍された先生が、経済学者、エコノミストとして注目されるようになった理由は。同時に、日本経済の将来展望について教えていただけますか。

 東海銀行で1983年に調査部長に就任しましたが、日米貿易摩擦が激化し、ドル高是正に向けての動きが始まる前でした。85年4月、東海銀行の「調査月報」で、当時1ドル250円の為替相場が150円になると予測しました。その年9月、先進5カ国で為替市場に協調介入するプラザ合意が成立し、翌日から急落して翌年には150円になったのです。予測が的中したので、一躍脚光を浴びることとなりました。以後、長年にわたり毎週NHKはじめ各テレビ局に出演しておりました。

 半世紀にわたって政府は借金し、目先の繁栄を目指す政策をとってきました。国の借金は膨大になり、やがて日本経済は悪性インフレという崩落の危機に向かいます。大不況を覚悟して大至急で財政改革を断行すべきです。残念ながらその期待は難しくなりましたが、私はあきらめてはいません。経済学を学ぶ学生にも、問題意識を共有していただき、破綻に対処する道を見付けてもらいたいですね。

 ――500冊余の蔵書を中京大学図書館に寄贈されていますね。

 中京大学の図書館は、地域の人たちにも開放されていて、学生以外にも本に興味のある方に利用してほしいという願いがありました。八事という、立地条件にも恵まれています。自分が書いた本も30数冊になりましたが、1997年に東洋経済新報社から出版した「財政改革の衝撃」は、ぜひ一読していただきたいと思います。

「社会に役立つ一流の人材を」

 ――今後の中京大学にどのような期待をされますか。

 人のために骨を折れる人を育て上げてほしい。言い換えれば「社会にとって役に立つ一流の人材」の育成ですね。中京大学は、スポーツでは世界一の選手の育成を目指している。それをほかの学部へも広めてほしい。私も経験したのですが、50メートルのプール開きの時、戯れに泳いだところ、伴泳してくれたのがオリンピック出場の選手だったり、卓球の話し相手になってくれたのも世界チャンピオンだったり、身近に一流の人がいます。それを活かしてもらいたいですね。

 経済学部に関して言えば、お金と無縁の人はいないので、お金に関しての常識を高めて、それを身近な人たちに教えることができる人を育ててほしい。お金の使い方、儲け方はもとより、お金にまつわる犯罪も多いので、学んだことを人のために役立ててもらいたい。


経営者講座の講師となった水谷研治氏(1997年6月、当時・東海総研社長)

水谷研治(みずたに・けんじ)さん

1933年生まれ。名古屋市出身。
名古屋大学経済学部卒。東海銀行調査部長、専務取締役、株式会社東海総合研究所、代表取締役社長、理事長など歴任。1989年経済学博士(名古屋大学)。1999年中京大学教授、2001年大学院経済学研究科長。学校法人梅村学園理事、評議員、学術顧問のほか、学外で公務員制度調査会委員、財政制度等審議会専門委員なども務めた。2008年中京大学名誉教授、2012年名古屋大学客員教授。