三浦和人さん

 約40年前、中京大学の夜の名古屋キャンパスが、ギターの音色に乗った甘い歌声に包まれた。歌うのは、フォークデュオの「雅夢」(がむ)の2人。現職の商学部学生でつくるこの2人組の曲が音楽番組のベスト10に選ばれ、キャンパスから全国に生中継されたのだった。その1人で、現在も音楽界で活躍する三浦和人さんに、当時の様子、大学へのいまの思いなどを聞いた。

ステージ周辺は学生で鈴なりに

 ――全国中継は、TBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」で1980年12月に3週連続、計3回行われています。ステージはいまもある3号館当たりに組まれました。どんな雰囲気で行われたのでしょうか。

 大学の校舎前に組まれたステージで、「ザ・ベストテン」の放映時間に合わせて、デビュー曲「愛はかげろう」を歌いました。2回目か3回目のときは、ステージを見渡せる校舎の廊下は学生たちで鈴なりで、崩れて落ちるんじゃないかと本気で心配しました。後から聞いたのですが、暴走族が来るって情報があり、機動隊も来たこともあったらしい。その隊員たちは中京大のOBが多かったということです。 当時は、テレビ局が大学などと打ち合わせていたので、ぼくたちは何時に大学に行って演奏する以外、詳しいことは知らされていません。夕方、下宿から大学に行ったら、あまりの人の多さにびっくりさせられたことはよく覚えています。

 ――当時の写真を見ると、ステージのそでに混声合唱団などクラブの旗がひしめき、周りを学生たちが取り囲んでいます。校舎の廊下には横断幕も掲げられています。

 これも知らなかったことですが、事前に考えられた演出でしょうね。とにかく、何が起きているのは全然分からない状況でした。自分の想像をはるかに超えた反応が起こって。

大学3年で雅夢を結成

 ――どういう経緯で雅夢が誕生したのでしょうか。

 私は兵庫生まれで、中学3年生のころギターを始めました。1977年に中京大の経営学科(現・経営学部)に入学してからも一人でフォークソングを続け、作曲もしていました。ライブハウスに出たいなと思っていた3年生のとき、知人に紹介されたのが同じ学科の中川敏一さん。最初はライブハウスで一人だけで歌っていましたが、中川さんがサポートでギターを弾いてくれるようになり、雅夢という名前のデュオでいくつかのライブハウスに出演するようになりました。

 ――その雅夢が、一躍有名となって、翌年には全国中継されるようになるんですね。

 ライブハウスでの演奏をしているうち、第19回 ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)の地区大会関係者から声をかけられたのを契機に、1980年5月の決勝大会で「愛はかげろう」を披露しました。これが優秀曲賞(2位)に選ばれて9月にレコードレビューとなります。そして12月には、「ザ・ベストテン」でベスト10入りし、大学でのライブ中継という形で紹介されることになりました。

 ――全国に放送されたあと、どんな反響だったのでしょうね。

 中継されるたびに、大学で自分に声をかけてくる学生がどんどん増えていきました。中には顔を知らない人もいて、びっくりしました。当時は銭湯通いでしたが、ある日お風呂から上がると、番台を通して女湯のほうから「愛はかげろう」のシングル盤が10枚以上出されてサインを要求されました。私が銭湯に来たあと、番台のおばさんが常連の女性客に連絡したんですね。もう怖くなって事務所に相談したら、名古屋・名東区の風呂付きのアパートを見つけてくれて引っ越しました。

デビューから生活が激変

 ――大学生活での様子も変わりましたか。

 デビューしてからは、レコーディングや取材対応などで東京と名古屋を行き来する毎日。まったく休みはなかったのですが、3年生までにそれなりに単位を取っていたので、卒業はできました。卒業前、就職をするかどうか悩みましたが、やはり音楽は捨てられず、中川さんと2人で東京に出て音楽活動を続けていく決意をしました。

 ――このほか、大学生活で印象に残っていることはありますか。

 僕は中学時代から野球をやっており、高校時代には水泳も習っていた。そこで体育の先生になりたくて、中京大の体育学部を目指しました。しかし、受験直前に腰を痛めて、あわてて商学部などを受験して入学できました。体育学部に入っていたら、雅夢は結成されなかったでしょうね。

 瑞穂区での下宿生活は懐かしい。「愛はかげろう」も、大学から下宿に戻る途中でぱっと浮かびました。それで部屋に飛んで帰って、テープに録音しました。15分でできた歌です。1年生の時は会計学研究会に入って、会計を勉強していたこともありますよ。

 大学2年生のころ失恋したことも。このとき、どうしたら人間は輝けるのかと思い、好きなことをやっているときに輝けるのではと奮起し、ばかにされてもいいから人前でギターを弾いて歌ってみようと思ったんです。

 ――今は一人で活動されていますね。

 そうです。東京に活動の場を移してから、コンサート活動を続けたほか、シングルやアルバムを10枚近く出したのですが、中川さんとの音楽性の違いから「雅夢」を84年12月に解散しました。ソロになってからは、FMラジオのパーソナリティーを13年間やったり、全国でコンサート活動を続けたりしています。フォークグループふきのとうのメンバーだった細坪基佳さんとデュオを組んだり、兵庫の母校の小学校の校歌をつくったりしたことも。

今も名古屋で年2回コンサート

 ――いまも大学や名古屋とはつながりがありますか。

 名古屋では必ず年2回、コンサートを開いています。同じ中京大OBのフォークシンガー、伊藤秀志さんや、俳優の小西博之さんとは付き合いもあり、名古屋でのコンサートのうち1回は、伊藤さんと一緒に組んでいます。グループ名は「八事交差点」です。東京で開催された中京大の同窓会などでは、大学や梅村学園の偉い方と知り合うことができ、名古屋で開いたコンサートに顔を出していただいたこともあります。

 ――三浦さんが卒業したあと、中京大学も大きく変わりました。三浦さんにとって、中京大とはどんな存在ですか。

 自分の自立を促してくれ、いろいろなことを教えてくれた場所です。ものすごく大事な時期を中京大で過ごした。中京大に行かなかったら、当然今の自分はありません。そして、中京大のある名古屋にも、ここにいなかったら今の僕はいないという強い思いがあります。

 ――最後にいま、力を入れているお仕事があったら教えてください。

 作家・五木寛之さんの詩、作詞作曲家・新井満さん作曲の「きのう きょう あす」のボーカルを頼まれ、2019年5月にニューシングルとしてリリースされました。僕は自分の曲しか歌わないことにしていたんです。でも、昨年還暦を超え、「自分の解放、新しい自分の発見」を大切にしたいという思いと、懇意にしている音楽評論家からの依頼でもあり、引き受けることにしました。五木さんの詩もすばらしく、一人でも多くの方に聞いていただきたいと思います。あとは体の続く限り、CD制作、コンサートなど音楽活動を続けていきたいですね。


4年生の時に入った中京大フォークソング部の三浦さん(最前列の右から2人目)

全国中継で「愛はかげろう」を歌う雅夢の三浦さん(右)と中川さん

三浦和人(みうら・かずと)さん

1958年生まれ。兵庫県出身。
77年に中京大学商学部経営学科入学、81年卒。3年生の時、同学年の中川敏一さんとフォークデュオ「雅夢」を結成。80年12月、「愛はかげろう」がTBS系「ザ・ベストテン」にランキングされ、名古屋キャンパスから全国テレビ中継された。「雅夢」は84年に解散。その後、主としてソロで演奏活動を続けている。東京都在住。