川窪元雄さん

 中京中学、中京商高、中京大学と梅村学園で10年間学び、一貫して美術部に在籍した川窪元雄さん(1970年法学部卒)は、大学時代に学園各校で巨大な壁画制作に参加し、油絵の作品を公募展などに意欲的に出品してきた。今も美術部OBの展示会や集まりを熱心に催し、母校への愛着は強い。

美術部で「真剣味」を実践

 ――美術部での活動は中京中学の時からですか。

 小学校の頃はガキ大将で、勉強よりも遊び、なかでも絵を描くことが大好きでした。それを見ていて、中学校の教師だった姉が、高校、大学入試で苦労しないようにと、中京中学校への進学を勧めてくれました。高校が野球で有名だったので、志願者も大変多かった。
 1960(昭和35)年に中京中学へ入ると、迷うことなく美術部に入部しました。部活は高校と一体になっていて、中学生の新入部員は3、4人でしたが、部活について行けず相次いで退部し、中学生で残ったのは私一人です。
 当時、美術部長だった下島光二先生との出会いが、その後の人生の道しるべとなりました。先生からは「絵が上手になるには、無知ではだめだ。何事にも『真剣味』を持って取り組み、学業もおろそかにはしてはいけない。絵や美術の基本をしっかりと学び、その上で作品を描くように」と、厳しく指導されました。
 下島先生は画家としての評価も高く、春陽会の会員として画業に励んでおられました。また、1947(昭和22)年から49年まで、美術を教え、美術部の母体をつくった遠山義春先生(雅号 友啓)は、本学退職後、洋画家として独立され、光風会評議員、日展会友としてご活躍されました。

 ――中京商高美術部でも活躍されたとか。

 高校の美術部は、1966(昭和41)年から毎年開催されている愛知県高等学校商業実務大会・商業美術の部で1位になったこともあります。商業と絵画のグループがあり、私は絵画に入り、油絵を描いていました。下島先生の指導のもと、高1では愛知県私学美術展、中部太平洋美術展、高2では中部新制作展、高3では中部春陽会展、全日本油絵コンクールに入選し、財団法人明治村からは水彩画で明治村賞をいただきました。
 2年の時、県高等美術学校商業実務大会の商業実務部門で団体優勝。2年連続個人優勝の中橋憲次君は、卒業後渡米してニューヨークでデザイナーとして活躍中です。まさに中商文化会美術部の全盛期だったのではないでしょうか。校長だった梅村清弘先生(現名誉総長)も100号から120号の大作の油絵を描いて、春陽会展に出品、入選するなど、大変活気がありました。

学園各校で巨大な壁画を制作

 ――中京大学の法学部一回生ですね。

 大学は一浪して、京都か、金沢の美術大学に進学し、美術の教師になろうと思っていました。ところが、中京大学に法学部、文学部が新設されることになり、下島先生の助言もあって、法学部に入学することになったのです。その際、美術部主将、正副級長、生徒会功労賞受賞などの実績が認められ、特待生として入学することができました。
 法学部の教授陣は、裁判官、弁護士経験者が多く、指導は厳しかった。出席率、単位の取得が不足して、退学する学生も少なくありませんでした。
 入部した美術部は30人ほどの部員で、文学部の女子学生4人が入り、華やいだ雰囲気がありました。個人的に、絵画で師事したのは遠山義春先生で、梅村清弘先生にも指導を受けました。光風会展にも出品を続け、卒業後には入選することができました。
 作品の制作以外に、美術部には大学祭の応援活動があります。八事界隈の名物だった立て看板を描いたほか、ポスター、パンフレットもデザインしました。頼まれて詩吟、茶・華道部の発表舞台の背景画を描いたのも覚えています。東海学生美術連盟でも中心となって、椙山女学園大学や金城学院大学など女子大とも活発に交流し、グループ展や野外展も開きました。

 ――学園内にある数多くの壁画の制作も手伝っておられますね。

 壁画の制作を着想したのは梅村清弘先生です。絵や書に堪能な先生は、キャンパスに特色を打ち出すためにアーチ型の窓を採り入れたりしていました。建物の外観とともに、内部にも特色を持たせたいと考え、モザイクの壁画制作を思い立ったようです。春陽会会員の出岡実画伯に相談して中京高校で制作し、1967(昭和42)年には中京大学名古屋キャンパス2号館にモザイクの大壁画を創ることになりました。出岡画伯が下絵を描いて、タイルの職人に制作を頼んだのですが、引き受け手がなく、窮して大学と高校の美術部に共同制作の依頼が来ました。快諾した有志が、夏休みに合宿してタイル片やモザイクタイルを並べて壁画を仕上げたのです。カーブした面のある上半分はギリシャの天体神話、下半分は四人の神が描かれ、当時の四学部(商、体、文、法の学部)の飛躍を表しています。
 壁画はその後、陶芸家の加藤舜陶、小原和紙の山内一正、春陽会員の東直樹先生たちにも依頼して、八事はもとより豊田校舎や松阪女子短期大学などにも創られましたが、素材はタイルのほか、ガラス、金属などさまざまでした。梅村学園が文化芸術にも秀でた学園であることを示すことができたと思います。


壁画「黎明」制作の思い出を語る川窪さん
(名古屋キャンパス2号館入口ロビー)

同窓生の交流も続く

 ――梅村学園美術展、「梅美展」も始まっていましたね。

 「梅美展」は先輩の一人が「梅村学園はスポーツでは大変有名だが、文化会の活躍が全く知られていない。学園全校の美術系団体を統合して大展覧会を開催したい」と、梅村清明先生に直訴したところ、先生が大いに喜ばれて、私の在学中の1964(昭和39)年から毎年愛知県の美術館で開かれるようになりました。すでに50回を超えていますが、大学の書道部、美術部、高校の書道部、美術部、写真部の部員が出品し、学園の文化会活動の成果を発表する、かけがえのない場となっています。

 ――美術部OBとしての活動は。

 1969(昭和44)年頃からOBOGと在校生が交流する定例会が開かれていましたが、自然消滅して20人ほどで親睦会をやっていました。2010(平成22)年からは有志で「としわ会展」を開き、その人たちが中心となって2015(平成27)年に美術部OBOGの会「としわ会」を正式発足させました。会員20余人、不定期ですが「としわ会報」も発刊しています。
 「としわ会」の名称は、かつて美術部で発刊していた「年輪」という機関誌の名から採ったものです。昔話、それぞれの近況、学園への想いなど語り合い、時には投稿したりして、交流を深めています。

 ――後輩に伝えたいことはありますか。

 部活は、先輩や後輩との付き合い、社会的な場での体験など、勉強以外にも視野を広めて、人間性を磨くことに大変役立つと思います。求められるなら、先輩として、作品制作の指導や助言も積極的に行うつもりです。

川窪元雄(かわくぼ・もとお)さん

1947年名古屋市北区生まれ。
中京大学卒業後も大学に残り、心理学を学ぶ傍ら、中京高校の社会科講師を務め、美術部も指導した。舞台美術会社に入社し、テレビ番組の制作スタッフ、チーフ責任者など務める。その後、造園業に転じ、現在は独立して「ガーデンカワクボ」を営む。中京高校教員OB組織「凜乎(りんこ)の会」会員、中京大学美術部OBの「としわ会」会長。