水野孝一さん

 水野孝一さんは、真夏の名古屋を舞台にした踊りの祭典「にっぽんど真ん中祭り(通称どまつり)」の生みの親と言える存在だ。中京大学在学中に「大きな祭りを立ち上げたい」と決意し、2019年に21回目を開催し、観客235万7000人を動員した。踊り手も毎年のように増え、参加チーム数は海外も含め200を超える。「どまつり」を思い立った経緯と、軌道に乗せるまでの苦心などを聞いた。

「YOSAKOIソーラン祭り」の衝撃

 ――「どまつり」の開催を思い立ったのは中京大学の学生時代ですね。

 高校で簿記や会計が面白くなり、将来会計で身を立てることを視野に中京大学の商学部に入学しました。1年生のとき、既存のサークルに入り損ね、友人たちとアウトドア・サークルをつくって活動していたのですが、2年生に上がるとき、新入部員を募るサークルPRバトルと銘打ったコンテストに出場したところ、2位になって、札幌行きの航空券を手にしました。その旅行で目の当たりにしたのが「YOSAKOIソーラン祭り」です。街を舞台に、大勢の観客を前に、色とりどりの衣装を身にまとった踊り子たちがソーラン節のメロディーに合わせて踊る様を見て、驚嘆するとともに、主催者が大学生であると聞いて羨望の気持ちを抱きました。そこからが始まりです。

 ――立ち上げるまでには、どんな経緯があったのですか。

 2年生の時に北海道の学生から、祭りで踊りませんかというお誘いがあり、急きょチーム「鯱(シャチ)」を結成して、参加しました。メンバーは東海地区の大学生66人です。2年目は94人になりました。その感動が忘れられず、「名古屋にも新しい祭りをつくりたい、そして街を活性化しよう」という声が学生仲間で高まりました。最初は地元の夏祭りにチームが踊り手として参加する程度でしたが、舞台を名古屋の中心で大掛かりにやろうということになって、本腰で準備にかかったわけです。4年生になる前で、就職を考え始めた頃でした。

 ――軌道に乗せるまでは、ご自身も大変だったと思いますが。

 会計学の勉強のため、専門学校にも通っていました。そんな中で、大きな祭りを立ち上げようと決心するのですが、所属していた会計学のゼミの小泉明先生には「とりあえずやってみたら」と励まされるし、就職部でも、「頑張れ」と後押しされ、両親の反対もありませんでした。実行委員会を組織して資金集めに乗り出したのですが、これが本当に大変でした。中京大学の同窓生が在籍している職場など、片っ端から回りました。祭りの趣旨を説明するのですが、思いを言葉にして伝える難しさを痛感させられました。1999年8月の「広小路夏祭り」に合わせて開催する予定でしたが、5月時点で集まった資金は30万円、予算目標の1300万円にはとても足りない。そこで、当時の東海総合研究所(現・三菱UFJ総合研究所)の水谷研治理事長(現・中京大学名誉教授)に直訴して、「どまつり」の経済効果の試算をお願いしました。構想を話すと、「実現するのは無理だよ」と反対されたのですが、思いの丈を述べると承諾してくれて、最終的に、40億円の経済効果があると発表してくれました。報道関係が一斉に取り上げてくれたので、支援者が増えました。1999年の第1回目「どまつり」は、久屋大通公園など4会場で26チームが踊りを披露することができました。

全員参加型をコンセプトに

 ――2007年には公益財団法人になって、水野さんは専務理事に就任されました。

 第2回は、54チームが参加し、会場も6か所に広がりました。この年、初の海外チームとして韓国から梨花女子大学が参加し、海外のチームとの交流が始まります。任意団体の「にっぽんど真ん中祭り普及振興会」を設立したのは、2001年3月です。私は事務局長として、初めて就職します。その後「どまつり」は単独主催になり、年々来場者や参加チーム、そして会場も増えるのですが、久屋大通公園など、公共の施設を使用すると、学生の主催なので相当な使用料が求められる。そこで、行政、企業、学校、メディア、地域社会の皆さんに参加していただいて、祭りを盛り上げ、文化をつくる組織として、2007年に公益財団法人にしました。「どまつり」には自治体などからの補助金がありません。自己責任で、参加費を払ってでも参加したくなる「観客動員ゼロ=全員参加型」の祭りがコンセプトですから。

 ――2010年の「どまつり・名古屋大総踊り」では、9481人が踊り、見事ギネス世界記録に認定されましたね。

 実は、5年目には4000万円の借金を抱えていて、継続するかどうか悩んでいました。そんなころ、名古屋市内の商店街の小さなたばこ屋さんに飛び込んで協力をお願いしたところ、店主らしいおばあさんから、「頑張ってね」と、ザルに入った一万円札2枚と小銭を合わせて3万円ほどをいただいたことがあります。何日、何個のたばこを売ってこのお金を貯めたのかを想像すると、本当に頭が下がり、期待に応えねばという気持ちになりました。

 また、8歳の白血病を患っている女の子から、「自分もいつか踊りたい」と書いた手紙をもらったときは、責任を痛いほど感じました。そんな方々の期待に応えなければならないという使命感が「どまつり」を育てる力になったのです。若者たちは、決して、夢を具体化する力を持っていたわけじゃない、エネルギーと発想しかなかったのですが、水谷先生をはじめ、理解のある協力者とのコラボレーションによって生まれたのがこの「どまつり」です。

 ――「どまつり」の副次的な効果もたくさんありそうですね。

 各地で踊りのチームが生まれ、観客動員数も増えて、地域色豊かな祭りをつくる、文化を創るという当初の狙いも実現しつつあります。地域にもたらす経済効果はもちろんあるのですが、参加を呼びかけるために地方に赴くと、「うちの町はお嫁さんを探しています」とか「特産品があるのに、その宣伝の仕方が分からない」「非行少年の更生に力を貸してほしい」など、さまざまな相談があります。世代間の架け橋、地域に活力を呼び込むことも自分たちの使命であると気付かされ、「どまつり」の位置付けが少しずつ進化しているのを感じます。

「想像できたことは必ず実現する」

 ――中京大学も「どまつり」の有力な参加メンバーですね。

 中京大学のチーム「晴地舞(はちまえ)」は、非常に個性的なチームで、常に新しい仕掛けで登場する。大きな期待感を持って迎えられ、ファンも多く、毎年のように奨励賞や優秀賞を獲得しています。

 ――今の学生たちにアドバイスを。

 同窓生のネットワークがすごくて、随分助けられました。在学中も先生や仲間に恵まれた。開放的なスクールカラーが根付いていて、夢や希望を抱いて入学する学生には居心地が良い。例えば、就職の際も、将来の生活の安定が見込める役所や大きな会社を勧められがちですが、私のような例外的な進路希望についても、親身になって相談に乗ってくれ、後押しする器の広さのようなものがありました。今ようやく各大学でも「起業」について関心を向けるようになりましたが、中京大学には当時から夢を育てる校風があったような気がします。そんな包容力も大事にしてほしい。また、学生さんたちには、「想像できたことは、必ず実現する。それも具体的であればあるほどいい」と、伝えたいですね。

水野孝一(みずの・こういち)さん

1976年岐阜県生まれ。
1994年、中京商業高校(現・中京学院大学中京高校)卒業後、中京大学商学部に入学。95年チーム「鯱」を結成し、YOSAKOIソーラン祭りに参加。97年「鯱」代表に就任。1999年、「にっぽんど真ん中祭り実行委員会」を結成した後に、中京大学卒業。2001年「日本ど真ん中祭り普及振興会」事務局長。現在、「公益財団法人にっぽんど真ん中祭り文化財団」専務理事。名古屋大学大学院経済学研究科修了。経済学修士。